【ブギウギ】ついに「第1話」とつながった、「ブギの女王」誕生の物語
連続テレビ小説『ブギウギ』の第19週(2月5日~9日)。
愛助(水上恒司)を失った悲しみを抱えつつ、歌手としての復活へと向かうスズ子(趣里)が描かれました。
スズ子を支える人たち
強く印象に残ったのは、スズ子を支えてくれる人たちの存在の大きさです。
スズ子に頼まれた新曲に取り組む、羽鳥善一(草彅剛)。
初めての育児で手いっぱいのスズ子を見て、「きょうのあなたの仕事は休むこと」と家事を引き受けてくれた、羽鳥の妻・麻里(市川実和子)。
愛子を引き取りたいという申し出を断られても、困った時に助けるのは「当たり前や」と言ってくれた、愛助の母・トミ(小雪)。
弱っているはずのスズ子を励ますために香川から上京し、「孫より我が子のほうがどんだけ可愛いか」と語っていた、父・梅吉(柳葉敏郎)。
そして、「私は、(自分の子どもに)こんなまねできなかったから」と、スズ子の稽古中に愛子の面倒をみてくれた、先輩歌手・茨田りつ子(菊地凛子)もいました。
多くの人たちの後押しで、歌手・福来スズ子は再びステージに立つことになったのです。
「東京ブギウギ」創作の実話
ドラマでの羽鳥は、満員電車に揺られている最中に、ブギのリズムとメロディがひらめきました。
これは、ほぼ実話です。
モデルである作曲家の服部良一は、昭和22年夏のある日、都心から西荻窪の自宅に帰るため、中央線の電車に乗っていました。
その頃の服部は、笠置シヅ子から頼まれた新曲のことが頭から離れません。
情緒たっぷりの哀しい歌ではなく、明るくて楽しい流行歌を作りたいという思いがあり、それが「ブギ」でした。
車内で揺られていた服部の中で、ある瞬間、レールの震動とエイトビートのリズムがシンクロしたのです。
電車を降りて駅近くの喫茶店に入り、紙ナプキンに音符を書き込む服部。ドラマと同じです。
もちろん、まだ歌詞はありません。服部は、上海時代に親しくなった同盟通信社の記者・鈴木勝に作詞を依頼します。
鈴木は、仏教学者の鈴木大拙の養子。日英ハーフのバイリンガルであり、独特の感性を持つ人物でした。服部は、そこに期待したのです。
昭和22年(1947)の9月10日、コロンビアのスタジオで「東京ブギウギ」のレコーディング。
録音室には、これもドラマと同じく、近くの米軍クラブから下士官たちがギャラリーとして来ています。異例のことですが、鈴木の声かけによるものでした。
GIたちは、シヅ子の強烈な歌声とブギのサウンドに合わせて体を揺らし、歓喜したのです。
同じ9月に、大阪の梅田劇場のショーに出演したシヅ子は、そこで「東京ブギウギ」を初披露し、拍手喝さいをあびます。
「ブギの女王」誕生!
ドラマでは、「東京ブギウギ」初披露は昭和23年(1948)1月の東京。「日帝劇場」でのワンマンショーになっていました。
楽屋で、愛子にキスをしているスズ子。
そのかたわらにいて、「あなたの下手な歌を、お客さんが待ってるでしょ?」と声をかけたのは、りつ子です。
すると、そこに羽鳥が顔を出しました。
「僕だって早く指揮棒振りたくてズキズキワクワクしてるんだ。さあ、行こう! トゥリー、トゥー、ワン、ゼロ!」
羽鳥に促されたスズ子が、愛子に言います。
「お母ちゃん、お客さんとズキズキ、ワクワクしてくるわ!」
この場面は、昨年10月2日に放送された、第1話の冒頭で描かれていたエピソードであり、ここでしっかりとつながったのです。
ステージに飛び出したスズ子。その躍動感にすべての観客が巻き込まれていきます。まさに「ブギの女王」誕生の瞬間でした。
そして、羽鳥が言っていたように、「東京ブギウギ」はスズ子の復興ソングであると同時に、日本の復興ソングになっていきます。