【九州三国志】天正の乱世、肥後の風雲!頼房の葛藤と、その果ての唐人町
天正十五年、相良頼房は「宮内大輔」と名乗り、新たな名に誇りを抱くも、肥後国の混乱に巻き込まれます。
肥後領主・佐々成政の支配に反発した国人一揆が勃発し、豊臣秀吉公の怒りが奔る中、頼房は思わぬ難局に立たされました。
島津氏の介入を警戒した成政の要請に応じ、頼房は佐敷にて必死の防戦。
深水宗方の陳謝により事態は沈静化したものの、この一揆の混乱が相良家に影を落とします。
さらに、文禄元年、頼房は朝鮮出兵の命を受け、深水頼蔵と犬童頼兄を伴い760余名を率いて遠征します。
しかしその間、国許では竹下監物を中心に内部抗争が勃発。
騒乱の収拾には、多くの犠牲が伴い、長く相良藩の禍根となりました。
頼房の帰国後も、深水一族と犬童一族の対立が尾を引き、遂には豊臣政権の禁を犯す大規模な処罰劇に至ります。
それでも、戦場での活躍は輝かしく、頼房は安辺城防衛や蔚山城の戦いで名を挙げ、秀吉公から感状を賜りました。
帰国の際、連れ帰った朝鮮人捕虜たちは唐人町に住まわされ、その中の陶工が上村焼窯を開きました。
この窯が後に地域の産業を支えたことは、頼房の数奇な運命の中でもささやかな救いと言えるでしょう。