【九州三国志】人吉城、その歴史の重み!球磨川が見守る城の物語
人吉城は、肥後国球磨地方の中心で、自然を巧みに活用した梯郭式の平山城としてその歴史を刻んでまいりました。
鎌倉時代、遠江国相良荘の国人である相良長頼が、地頭職として人吉荘の地に赴いたことがその始まりとされています。
しかし、この地を支配していた矢瀬主馬佑との抗争は避けられず、策略を用いて主馬佑を討つ結果となりました。
その後、長頼は城の基礎を築き上げ、ここで見つかった三日月模様の石にちなみ、繊月城とも称されるようになりました。
戦国時代には相良氏が球磨地方を統一し、幾度の改修を経て近代城郭へと生まれ変わります。
島津氏や北原氏との緊張感漂う戦いを繰り広げ、さらには羽柴秀吉の九州征伐や関ヶ原の戦いに巻き込まれる中で、巧みな外交と戦術を駆使し、領地を安堵されていきました。
その一方で、天正年間からの大改修や度重なる火災など、幾多の試練を乗り越えながらも、相良家の精神を宿す城として存続しました。
城の設計には防御の工夫が凝らされており、「武者返し」と呼ばれる独特の石垣がその一例です。
この技術は日本国内では他に例を見ない貴重なもので、防火や敵の侵入阻止を目的とし、球磨川沿いにそびえるその石垣は、歴史の中で生き延びた象徴とも言えるでしょう。
明治時代の廃藩置県により廃城となるも、西南戦争の舞台となるなど、その役割はなお続きました。
そして現在、人吉城は公園として整備され、歴史館や復元された建物がその姿を伝えています。
しかし、2020年の豪雨による被害により、一部施設は休館を余儀なくされております。
悠久の歴史を抱きつつ、球磨川の流れとともに静かにその存在感を示す人吉城。
その姿は訪れる人々に多くの物語を語りかけてくれるに違いありません。