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「ジャニーズ問題」どうしたら再発を防げるのか?人権教育と「国内人権機関」設置の必要性

室橋祐貴日本若者協議会代表理事
(提供:イメージマート)

人権意識の低さが引き起こしたジャニーズ問題の放置

ジャニー喜多川氏による性加害問題によって、「人権」に注目が集まっている。

欧州に視察に行くと、高校生や中学生を含む、どの人に話を聞いても、「human rights(人権)」と「democracy(民主主義)」という単語が必ず出てくる。

長年悲惨な戦争が起こってきた欧州では、それぐらい人権と民主主義を重視しており、幼少期から、徹底期に民主主義教育と人権教育を行っている。

それに対し、日本では、「人権」という言葉がややイデオロギーめいて使われており、あまり重視されていない。

それは、ジェンダー・ギャップ指数(146カ国中125位)や、国連人権理事会における「UPR(普遍的・定期的検査 / The Universal Periodic Review)」で日本に出された勧告の数(2023年1月に勧告された数は過去最多の300)を見ても明らかである。

さらに最近は、ビジネスにおいて急速に人権重視が求められるようになってきており、もはや人権侵害を放置している企業は取引すらできないなど、経済的にも甚大な影響を及ぼすようになってきている(人権デューディリジェンス)。

人権デューディリジェンス(人権DD)とは:企業が人権侵害のリスク(強制労働など)を軽減するための継続的なプロセスのこと。

ただ、日本はこの分野でも遅れている。

欧州や米国では2015年以降、大企業に対してサプライチェーンを含めた人権DDの実施を義務づける法律の制定が相次いでいるのに対し、日本では、2022年に「責任あるサプライチェーン等における人権尊重のためのガイドライン」を公表したものの、ガイドラインに法的拘束力はなく、実施を義務づける法律の制定も進んでいない。

仮に人権DDの議論が日本でもっと進んでいたら、もっと早くジャニーズ問題に目が向けられていたかもしれない。

あらゆる分野で人権保障の観点から議論される欧米諸国

さらに、政府が気候変動対策を十分に進めないことは人権侵害であると、6人の若者が欧州の32カ国を相手に提訴するなど(9月27日に欧州人権裁判所で審理がスタート)、気候変動も人権保障の観点から議論されつつある。

欧州や米国ではその訴えがすでに認められており、ドイツでは、若者が憲法裁判所に訴えた内容を受けて、2週間以内に法改正の閣議決定が行われるなど、気候変動対策に大きな影響を与えている。

他にも、ジェンダーや労働はもちろん、あらゆる分野が人権保障の観点から議論されている。

例えば最近、日本で話題の少子化対策。

日本では出生率を上げるためにどういう施策が必要か?と、国目線から議論される。

これに対し、日本以外の国々で子育て施策を議論する時に最も重視されている視点は、少子化ではなく、人権である。

人々がその属性にかかわらず可能性や選択肢を広められるように、誰もが使いやすい社会制度を政府が整備するのである。

例えば、下記のスウェーデン大使館の子育て・家族政策の勉強会での北欧関係者の発言が象徴的である。

こうした観点から環境が整備されているため、欧州でも日本と同様に人口減少のトレンドは出ているが、幸福度の観点から見れば全く異なる結果となっている(日本では産みたくても産めないのに対し、欧州では自己決定の結果として産んでいない)。

人権と民主主義の関係性

しかし、日本では子どもを産んでもらうために、どういう施策が必要か?と、国目線から議論される。

だからこそ、政府が求める家族像や生き方を押し付ける形となり、そこに国民(特に、多様性が当たり前の時代に育った最近の若い世代)は嫌悪感を覚えるのである。

政府が特定の方向に誘導するのではなく、個々人が希望する方向にいきやすくするための環境を整備する。

それが人権保障である。

これが欠如しているため、国民の感覚に鈍感であり、積極的に声を集めようともしない。

つまり、人権保障の観点が弱いことと、日本が民主主義国家として未熟なことは密接に繋がっている。

このように日本のあらゆる問題が、人権の観点が弱いことから来ている、といっても過言ではない。

なお、人権保障において国境は関係ない。

それは、ホロコーストを思い起こせば明らかなように、どこに生まれようが、その人の可能性や選択は尊重されるべきであり(普遍性)、お互いに守っていくことが重要だからである(だから国連人権理事会では定期的にお互いの国をチェックしている=UPR)。

日本では、国連からの勧告に反応が鈍いように、他国からの干渉を嫌う、1990年代に否定された「アジア的人権論」を引きずっているが、人権保障が国際的な水準になっていないからこそ、どんどん取り残されているのである。

アジア的人権論とは:「アジアには欧米とは異なる人権の考えがある」という考え方に基づき、人権とは相対的なもので、アジアでは社会権の実現が優先され、個人より集団の発展の権利が優先されるべきで、人権は国内問題であるから外部の介入は許されるべきではないと、1993年、冷戦終了後初めての世界人権会議の前に、「バンコク宣言」を採択。

しかし、1993年の世界人権会議で採択された「ウイーン宣言」には、「すべての人権は、普遍的かつ不可分であり、相互に依存し関連していること」、「国家や地域の特性や歴史的、文化的、宗教的背景は考慮しなければならないが、すべての人権の保障はそうした違いに関わりなく国家の義務であること」が盛り込まれた。

人権教育と道徳教育の違い

ではなぜ日本では、「人権」が重視されていないのか?

それは、道徳教育の影響と、国内人権機関(詳細は後述)が存在しないことが大きい。

日本では道徳教育によって、思いやりを大事にするように教わる。

相手の気持ちや立場を考えて、よかれと思うことをしようというものである。

しかし、人権とは「思いやり」ではない。

そもそも多様な社会で、他人の考えはそんな簡単に分からないという前提があるが、人権とは、「人々がその属性にかかわらず可能性や選択が尊重されるべきだ」という考え方に基づいており、人権保障とは、そのための環境を整備することである。

そして、その環境を整備する責任は、政府が負っている。

国連人権高等弁務官事務所の定義ではこのように説明されている。

人権とは「生まれてきた人間すべてに対して、その人が能力を発揮できるように、政府はそれを助ける義務がある。その助けを要求する権利が人権。人権は誰にでもある。」

つまり、人権とは親切や思いやりによって実現するものではなく、政府が制度などによって人権を保障する義務を負っている。

だからこそ、欧州の人権教育では、権利の内容だけでなく、その権利を主張するための手段、デモやロビイングなどを教えている。

他方の道徳教育は、思いやりや善悪の判断など、規範意識を身につけさせ、国民が(大人しく)行動することを求めており、そこに政府の責任は生じない。

だから、道徳教育で、政治参加の手段を教えることはない。

人権教育は、国民が自らの権利を知り、行動できるようにする(それも政府などの権力者に対して声を上げることを推奨する)。

このように、「道徳教育」と「人権教育」では、考え方が全く異なる。

さらに、日本では、人権教育の定義も世界標準とは異なるものになっている。

2000年に与党による議員立法として成立した「人権教育及び人権啓発の推進に関する法律」では、人権教育とは「人権尊重の精神の涵養を目的とする教育活動」であると定義されている。

国連の定義と見比べれば明らかなように、思いやりや優しさなどの精神面が強調されており、道徳教育と似通っているものとなっている。

この定義では、人権の実現のために、政府に働きかけよう、そのための知識を国民に提供しようという発想は出てこないだろう。

現に日本で起こっているのは、思いやり(あるいはバッシング)などの国民相互のやり取りであり、そこに国や地方の責任は出てこない。

政府や権力者にとって都合の良い解釈と言い換えても良い。

国際比較調査(ISSP2016)によれば、「住居の保障」「低所得家庭への大学生への援助」「高齢者の生活保障」などに関して、「政府の責任」であるとする日本人の回答は、調査対象35カ国中、35位だ。

見事に、政府にとって都合の良い国民が育っている。

筆者が代表理事を務める日本若者協議会では、社会課題の解決に対してアクションする人を増やそうと、各分野の先駆者を呼んで、10月から「Social Action School」を開催するが、本来は学校の人権教育や民主主義教育でこうしたことを教えるのが望ましい。

思いやりの問題点

さらに、思いやりを与えても良いと、弱者扱いされれば、十分な助けを得ることができるが、弱い立場から抜け出した瞬間に逆にバッシングに遭うことも珍しくない。

例えば、貧困を取り上げたドキュメンタリーで、スマホを持っていたら“贅沢”だと叩かれる。

そのように弱者であることを求められるのが善意であるのに対し、権利保障は選択肢の保障であり、誰もが持つべきものである。

1995年に成立したイギリスの「障害差別禁止法」の成立過程では、障害者団体が市民権や交通アクセシビリティなどを要求し、車椅子で道路を塞ぐなど、デモやキャンペーンを行ったが、その時のスローガンが「慈善ではなく権利を」であった。

自分たちを憐れみの対象としてではなく、権利の主体として、公平・公正な権利を求めたのである。

民主主義教育が公教育の最上位目標

このように、人権教育と道徳教育では、人々に求める行動が大きく異なる。

国民の政治参加率を見れば明らかなように、民主主義教育も全く不十分だが、まずこの違いを理解しなければ、日本でこれまで十分に民主主義教育が行われてこなかった理由を理解することはできない。

人権と民主主義は切っても切り離せない関係であり、人権を尊重する社会にするために、民主主義が必要なのである。

そのため、民主主義教育の必要性を認識するためには、人権教育が欠かせない。

そして、人権を適切に理解できれば、いかに民主主義教育が重要か理解できるだろう。

実際、欧州諸国の教育カリキュラムを見れば、民主主義を最上位目標に掲げている。

「学校は、生徒に民主主義が実際に何を意味するのか学び、参加する機会を提供するものとし、民主主義を実際に体験する場でなければなりません。」(ノルウェーの例)

一方、日本では民主主義教育が端に追いやられており、他の科目などで“時間がない”ために、主権者教育も十分にできていない。

しかし本来は、学校で最も重要なのが、民主主義教育であり、むしろそれをコアにしなければならない。

全ての科目で民主主義について触れ、学校生活で実践する(学校内民主主義の実現)。

そして誰もが、人権保障のために、どう民主的に行動すれば良いのか、知識を持ち、自分でも変えられるという感覚を持てるようにする必要がある。

そうしなければ、ジャニーズ問題を知っていても、事務所関係者やテレビ局、スポンサー企業に軽視(無視)されたように、様々な課題が取りこぼされ、あらゆる人々が生きやすい社会は作れないだろう。

国内人権機関の必要性

そして人権が日本で軽視されている、もう一つの大きな理由が、国内人権機関が存在しないことである。

ジャニーズ問題に関するYahoo!ニュースの記事でもコメントしているが、「国内人権機関」とは、あらゆる人権侵害からの救済と、人権保障を促進することを目的とした国の機関である。

政府から独立し、人々の人権が侵害された場合に調査を行い、救済する役割などを担う。

例えば政府から独立した国内人権機関(国家人権委員会)が設置されている韓国では、人権に関わるすべての法案が国家人権委員会に送られ、意見が求められる仕組みになっており、日本でも話題の中高生の髪型や髪色を規制するいわゆる「ブラック校則」について、国家人権委員会が調査を行い、行き過ぎた校則を行っている全ての学校長に対して校則改正と指導見直しの勧告を出している。

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今回、ジャニーズ問題が大きく進展することになった契機の一つが、BBCの報道に続いた、国連人権理事会の「ビジネスと人権」作業部会による2023年8月の調査報告である。

その声明では、メディアやエンタメ業界における性暴力問題だけでなく、障害者やLGBTQ、移民労働者ら人権侵害のリスクにさらされやすい集団を巡る課題を指摘。

そして、政府から独立した国内人権機関の設置も求めている。

作業部会は、日本に専門の国内人権機関がないことを「深く憂慮し、政府の取り組みに『大きな穴』が開いている」と述べ、「国内人権機関の地位に関する原則(パリ原則)」に沿って独立した国内人権機関を設置するよう促した。

「人権侵害があったという告発があった時は、どのようなものであれ真剣にとらえ、指導原則にのっとった形で適切な調査を行なうことが重要だ。その際には、調査は透明性をもった正当なものでなければいけない。被害者に対しては謝罪であれ、金銭的な補償であれ、きちんと救済が提供されなければいけない。そしてすべてのステークホルダーがそのような救済へのアクセスを担保しなければいけない」(作業部会のダミロラ・オラウィ議長)

なお、国連からは度々、政府から独立した国内人権機関の設置が勧告されており、UPR(普遍的・定期的検査)では、日本政府は一貫して「支持」・「フォローアップすることに同意する(accept to follow up)」としているものの、具体的な検討は進んでいない。

また、日本では「個人通報制度」も存在しない。

個人通報制度とは、国内で人権救済が行われない場合、人権侵害を受けた個人かその代理人が、国連の条約機関に直接通報し、仮に人権侵害が認められれば、政府に対して是正と救済を求める勧告を出すことができる仕組みである。

しかし、日本は個人通報制度に参加していないために、人権侵害があっても、是正・救済を求めにくい環境になっている。

これもまた、性暴力や性的マイノリティ、SRHR(性と生殖に関する健康と権利)、劣悪な労働環境(技能実習生や過労死)などにまつわる問題が一向に改善しない大きな背景となっている。

このように、日本は人権に関する意識がとても低く、人権救済の仕組みも脆弱なため、自分たちで人権問題を解決することができていない。

しかし毎回「外圧」でしか変えられないようでは、世界から取り残され、国民が不幸になることは明らかである。

一人ひとりが生きやすい社会を作るために、今一度「人権」に目を向けて、変なイデオロギーに囚われることなく、あらゆる分野で人権保障の観点が重視される国に変えていく必要があるだろう。

日本若者協議会代表理事

1988年、神奈川県生まれ。若者の声を政治に反映させる「日本若者協議会」代表理事。慶應義塾大学経済学部卒。同大政策・メディア研究科中退。大学在学中からITスタートアップ立ち上げ、BUSINESS INSIDER JAPANで記者、大学院で研究等に従事。専門・関心領域は政策決定過程、民主主義、デジタルガバメント、社会保障、労働政策、若者の政治参画など。文部科学省「高等教育の修学支援新制度在り方検討会議」委員。著書に『子ども若者抑圧社会・日本 社会を変える民主主義とは何か』(光文社新書)など。 yukimurohashi0@gmail.com

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