【「麒麟がくる」コラム】正親町天皇は、織田信長が神になろうとしたことを恐れたのだろうか
■織田信長は神になろうとしたのか
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の第41回「月にのぼる者」では、織田信長が正親町天皇に譲位を迫ったことに対して、三条西実澄が不満を抱いていた。朝廷黒幕説の伏線かもしれない。
一説によると、正親町天皇は織田信長が神になろうとしたこと(=自己神格化)を恐れたという。これも朝廷黒幕説の伏線だ。今回は、その真相を探ることにしよう。
■織田信長の自己神格化
織田信長の自己神格化とは、信長が神になろうとしたということだ。この説が提起されると、たちまち学界にセンセーションが巻き起こった。
ルイス・フロイスの書簡には、「信長は天正10年(1582)の自分の誕生日、おのれを生神とする祭典を大々的に催し、武士のみならず庶民の参詣を強要した。その祭典に諸国から信じられないほど大勢の者が集まった」と信長の自己神格化について書かれている。
もう少し補足すると、信長は天正10年(1582)の自分の誕生日に安土城下の総見寺(滋賀県近江八幡市)において、同所に置いた己(信長)の神体を拝むよう、貴賤を問わず人々に強要し、参詣すれば80歳の長寿を得、また病気の治癒、富栄えるなどの功徳があると述べたといわれている。
結果、信長は自らが神になろうとしたため、神の罰を受けて、本能寺の変で横死したとフロイスは言うのだ。
余談ながら、信長が自ら神になろうとしたこと、すなわち信長の自己神格化について、明智光秀は天に背く行為として許さず、本能寺の変を起こしたという説すらある。
同時に、信長が神になるということは、天皇を圧迫するという行為として理解された。自己神格化は、「本能寺の変」の朝廷黒幕説の一つの理由になったほどだ。
信長の自己神格化に賛同する研究者は、少なからず存在する。ある研究では、信長が一向一揆と対決する状況下において、その後の幕藩制国家の中枢である「将軍権力」を創出する過程に結び付け、信長の自己神格化を評価したほどである。
■否定的な見解
信長の自己神格化の問題は、信長の自己神格化を記した史料がフロイスの書簡などの外国の史料に限られており、日本側の史料に記録されていないことだ。それゆえ、信長の自己神格化を疑問視する研究者がいるのも事実である。それほど重要なことならば、日本側の史料に記載があってもおかしくない。
信長の自己神格化を否定する研究者の中には、信長が宗教的に自らを権威付けようとした点についてのみは認める人もいる。しかし、フロイスはキリスト教の立場から信長の自己神格化について述べたにすぎず、信憑性は低いと評価する研究者のほうが多い。
宣教師側の史料は、あくまでキリスト教徒の立場から評価していることもあり、誤解や偏見が少なからず見受けられる。信長が神になろうとしたから、本能寺の変で死んだというのは、その一例ともいえる。
もっとも本質的な問題としては、信長が神になることで、いったいどういうメリットがあったのかということである。
信長は支配者として、戦争に際しては軍役を家臣らに課し、農民には年貢の負担を命じた。その際、信長が神になることで、有利に作用したのかと言えば、決してそうではないと指摘されている。そもそも信長が既存の宗教が数あるなかで、新興宗教を起こしたところで、何か意味があるのだろうか。
豊臣秀吉は豊国大明神、徳川家康は東照大権現として崇められたが、それは死後のことである。生前に神になったわけではない。
死後、彼らは神になることによって、その後の政権を支えるバックボーンになった。つまり、戦国時代を通して、生きたまま神になった大名はいないのである。
■「盆山」という石は御神体か
信長は安土城の一郭に總見寺を建立し、「盆山」という石を御神体に定めたという。これは、宣教師側の記録だけでなく、『信長公記』にも盆山なる石があったと記述されている。
したがって、盆山という石があったのは事実であろう。「盆山」という御神体も、信長の自己神格化につなげて考えられた。
この点について最新の研究では、「盆山」と称する石を神体とする『日本史』の記述に疑問を呈し、その信憑性を疑うべきと指摘する。
「盆山」はご神体ではなく、単なる置物であるというのだ。フロイスがなぜ「盆山」をご神体と称したか不明であるが、意図的もしくは短なる勘違いである可能性が高い。
このように考えると、信長の自己神格化は大きくトーンダウンしている。十分な裏付けがないようなら、信長の自己神格化はなかったと考えるのが自然なようである。むろん、朝廷黒幕説など成り立つはずがない。