野宮真貴、40周年。“師匠”鈴木慶一と語る現在・過去・未来<前編>
野宮の“新しく美しい世界”が詰まった40周年記念アルバム『New Beautiful』
野宮真貴がデビュー40周年を迎え、4月20日にニューアルバム『New Beautiful』をリリース。鈴木慶一、佐藤奈々子、横山剣(クレイジーケンバンド)、高浪慶太郎、カジヒデキ、ポータブル・ロック、松尾レミ(GLIM SPANKY)らとコラボした新曲が5曲、さらに鈴木雅之や矢舟テツローとのライヴ音源2曲を合わせた全10曲が収録されている。40年というキャリアの煌めき、新しく美しい“今”の野宮真貴の音楽を感じることができる一枚だ。5月25日にはこのアナログ盤が発売され、そしてレコード会社4社に残した関連音源82曲がデジタルリリースされた。野宮真貴の存在、奏でてきた音楽が今また大きな注目を集めている。
1981年鈴木慶一(ムーンライダーズ)のプロデュースでデビュー
野宮は1981年9月アルバム『ピンクの心』でビクターからデビュー。プロデュースを手掛けたのはムーンライダーズの鈴木慶一。今回のアニーバーサリー・アルバム『New Beautiful』もビクターから発売され、同作で鈴木も新曲を提供している。デビュー時の鈴木とのクリエイティヴが、野宮のその後のアーティスト活動に大きな影響を与えている。今回は野宮の“師匠”ともいえる存在の鈴木と野宮の対談を通し、野宮真貴というアーティストの黎明期と現在進行形の姿を、映し出してみた。
――野宮さんがデビューした1981年というのは、アイドルとニューミュージックが幅を利かせていた時代でしたが、ムーンライダーズは唯我独尊というか、ニュー・ウェイヴの旗手として注目を集めていました。
鈴木 ニュー・ミュージックという言葉は便利でした。例えば70年代後半くらいに地方キャンペーンに行ってラジオとかで「どんな音楽をやってるんですか?」って聞かれると「ニュー・ミュージックです」って言って、適当にやり過ごしていました(笑)。ニュー・ミュージックって言わなくなるのは、ニュー・ウェイヴの洗礼を受けた時。ニュー・ウェイヴに夢中になった時は「ニューミュージックじゃないです、ニュー・ウェイヴです」と。1982年に出した『マニア・マニエラ』というアルバムで、ムーンライダーズというバンドの確固たる音楽ができたと思うので、そこからはなんのジャンルでもないんです。ジャンルに属さず、常に新しいジャンルを作っていくという思いで活動してきました。
「Gジャンにスカートでスタジオにポツンと座っていて、最初はハルメンズ追っかけかと思いました(笑)」(鈴木)
――そんな鈴木さんが野宮さんに出会った時のことは覚えていますか?
鈴木 はっきり覚えています。Gジャンにスカートで、スタジオにポツンと座っていて。確かハルメンズのレコーディングで、私はプロデューサーとしてサウンドをまとめていく役目で、ゲストは誰が来るのか聞いていなかったので誰だろうと思いました。
野宮 戸川純ちゃんと私が呼ばれていました。
鈴木 最初追っかけかなとか思っていたら(笑)、Gジャン着て座っていた人がマイクの前に立ったのでびっくりして。でも歌がすごくよくて、これはすごいボーカリストだと思いました。
野宮 ハルメンズの時はまだデビューしていなくて。アマチュア時代、パズルというガールズバンドもやっていて、そのライヴを慶一さんはご覧になっているんですよね?
鈴木 親戚バンドだよね?
野宮 妹がキーボードで、従兄弟がギターで、後はお友達でした。当時「ロックンロールっていう言葉をあんなに明るく歌っちゃう、その感覚が新人類」って慶一さんがおっしゃっていました。
鈴木 やっていることはニュー・ウェイヴなんだけど、曲の最後がロックンロールなのでびっくりして、それとステージ衣装が見たことがないくらい派手で(笑)。
野宮 ニュー・ウェイヴってとにかく目立ってナンボだと思って、そういうアイディアとセンスで勝負みたいな感じでした。
鈴木 我々もそうだったけどニュー・ウェイヴにハマっていくと、服装とか髪型から変わっていくんだな。真貴ちゃんもショートカットだったよね? 普段はものすごく大人しいのにステージに立つとあんな派手になって、ほんとに音楽をやりたかったんだね。
「ジジイ帰れ事件」とは⁉
――ソロデビューしたきっかけを教えて下さい。
野宮 ハルメンズのコーラスをやっている時、その時のディレクターからソロでデビューしないかと声をかけてもらいました。それでプロデューサーはムーンライダーズの鈴木慶一さんにお願いするって言われて、すごくドキッとして。なぜなら、以前ニュー・ウェイヴのバンドが一堂に会するイベントにムーンライダーズが出ていて、その時に私が「ジジイ帰れ」ってヤジを飛ばしてしまって(笑)。
鈴木 あれは見事に聞こえたんだよね(笑)。
野宮 私のお目当てが8 1/2(ハッカニブンノイチ)というバンドで、ムーンライダーズの次が出番でした。今だとそんなに歳の差って感じないんだけど、ニュー・ウェイヴの若手バンドが出てきた中で、当時20代後半の慶一さん率いるムーンライダーズが出てきて、しかも仮面みたいなのを付けていて、え?って思ってビックリして、思わず…(笑)。
鈴木 8 1/2と比べて10歳くらい年取ってるわけだからね(笑)。当時我々もニューミュージック的なものからニュー・ウェイヴに方向転換した感じだったから、最初からニュー・ウェイヴをやっている人からの「ムーンライダーズ方向転換したな」っていう思いをヒシヒシ感じました。
野宮 そういうことがあったので、デビュー作は鈴木慶一さんがプロデュースと聞いて、え?やばいっていう感じでした(笑)。
鈴木 でもジジイ帰れ事件のことは、大分後になって真貴ちゃんから聞いたんだよね。今回40年経ってまたビクターからリリースというのは、感慨深いです。
「ニュー・ウェイヴのサウンドでちょっと歌謡曲的なものを創ろうと思って“新歌謡”という言葉を作ったけど、全然流行らなかった(笑)」(鈴木)
――鈴木さんはプロデュースの話が来た時のことは覚えていますか?
鈴木 もちろん。でも1枚目を作る時はプロデュースといっても、ハルメンズが曲を作ってくれたり大協力をしてくれて。ニュー・ウェイヴのサウンドでちょっと歌謡曲的なものを創ろうと思って“新歌謡”という言葉を作ったけど、全然流行らなかった(笑)。
野宮 「女ともだち」というシングルが、先に資生堂「シャワーコロン」のCMタイアップが決まって、当時はCMタイアップはヒットの起爆剤になっていたし、このタイアップは注目を集めていたので、大チャンスだって盛り上がって。
鈴木 曲はCM部分しかできていなくて後から足していって。作詞の伊藤アキラさんも歌詞も増やしていって、女性同士がライバル心バチバチの歌詞が本当に面白い。ちょっとまてよ…ひょっとして最初からフルサイズを作ったのかも。記憶が曖昧(笑)。
「デビュー作『ピンクの心』では実験的なことをたくさんやりました」(野宮)
――野宮さんは自分のデビュー作を、どんな思いで制作していったのでしょうか?
野宮 曲は何曲かハルメンズが作ってくれたので、どんな感じになるのかある程度は想像がついていました。「ツイッギー・ツイッギー」を始め、佐藤奈々子さんが書いて下さった曲はとても好きでした。元々奈々子さんがいたSPYというバンドのファンだったので、書いてくださって嬉しかったです。曲の作り方が独特で、鼻歌で作るんですよね。慶一さんがピアノでコードを押さえて「これ?」「違う」ってやり取りしながら作っていって、それを見てプロの人ってこうやって作るんだと思ったことを覚えています。
鈴木 あの方は楽器を弾かないから、そういう作り方だったね。ハルメンズの曲の時はハルメンズのメンバーが来てくれるし、相談しながらやっている感じなので、独裁的なるプロデュースではなかったです。元々そんことはしないし。
野宮 慶一さんの曲はムーンライダーズが演奏してくれて、実験的なことをたくさんやりました。ビクタースタジオの扉をバタンと閉める音を録ったり、初めてのレコーディングはとても楽しかったです。
鈴木 「絵本の中のクリスマス」では<メリークリスマス>って遠くで言ってもらって、もっと離れて、もっとって、道端で叫んでいる感じにしたり。
デビューの時もその後もずっと慶一さんに面倒を見てもらっている感じです」(野宮)
――野宮さんは鈴木さんの羽田のスタジオ兼実家によく行っていたそうですね。
野宮 ソロでメジャーデビューして、でもアルバムが思うように売れなくて、ビクターとの契約が1年で終わってしまって、どうしようって思っている時期でした。私のデビューコンサートでバックをやってくれた鈴木(智文/G)君と中原(信雄/B)君とポータブル・ロックというバンドを作って、ちょうどその頃、慶一さんが羽田のご実家に“湾岸スタジオ”と呼ばれるホームスタジオを作ったばかりで「機材を新しく入れたからデモをうちで録っていいよ」って言ってくださって。慶一さんの弟さんでムーンライダーズのメンバーの(鈴木)博文さんがエンジニアを引き受けてくださって、毎日のように通っていました。でも本当にお金がなかったので、慶一さんのお母様がご飯を作ってくださって、それが美味しくて思い出の味です。
鈴木 その頃私は実家を出ていたのでいなくて、時々様子を見に帰るという感じでした(笑)。
野宮 デビューの時からその後もずっと、慶一さんに面倒を見てもらっている感じです。慶一さんが帰ってくると、ビートルズの曲を私が曲名言うとなんでも弾いて歌ってくれて、それがすごく楽しくて。
鈴木 玄関がいつも開いている家だったので、色々な人が出入りしていて、時々コアなファンの人とかが入ってきたり(笑)。
野宮 そこで色々なミュージシャンに出会いました。
「今回のアルバムに入っているポータブル・ロックの新曲『Portable Love』、すごくかっこいいんです」(野宮)
――ポータブル・ロックは83年結成で、鈴木さんが名付け親で鈴木さんの水族館レーベルからリリースしています。
鈴木 持ち歩き可能な石というか、悪い意味ではないお手軽なという感覚でネーミングしました。3人組でロックミュージックをやるんだけど、打ち込みでずっと作っていて、ライヴも同期を流してその上に楽器を被せる、本当にポータブルな感じでやっていました。
野宮 90年に私がピチカート・ファイヴに入って活動休止になって、でも解散はしていないなと思って、今回の40周年アルバム『New Beautiful』で「Portable Love」という新曲をメンバーに書いてもらいました。当時もサウンドがカッコよかったのですが、今回もすごくカッコいい曲で、私が作詞をしました。
「レコード会社と契約が終わっても、絶対スターなるんだって諦めなかった。そんな時に慶一さんが手を差し伸べてくださって、CMソングのお仕事をいただいたり、本当に感謝しかありません」(野宮)
――当時から鈴木さんはCM曲を手がけることが多かったですが、野宮さんに歌ってもらうことも多かったのでしょうか?
鈴木 すごく多くて、「この曲、歌誰にしよう」って思ったらすぐに「真貴ちゃんだな」って、なんでも真貴ちゃんになって。
野宮 ビクターと契約が終わった後、本当にどうしようっていう感じでしたが、でもやっぱり歌は諦めていなかったし、自分は絶対スターになるんだって思っていたので、音楽は続けたかった。そういう時に慶一さんが手を差し伸べてくださって、CMソングのお仕事をいただいたりして、本当に感謝していますし、勉強になりました。
鈴木 80年代はCMをいっぱいやってもらいました。
仕事以外での野宮真貴は――「物事を深く掘り下げない人」(鈴木)「それ小西(康陽)さんにも言われました(笑)」(野宮)
――お仕事以外での野宮さんってどんな女性でしたか?
鈴木 物事を深く掘り下げない人。
野宮 それ小西(康陽)さんにも言われました(笑)。
鈴木 真貴ちゃんって人間の最大の楽しみである、“考える”ってことをしないんだよ。ちょっと言い過ぎかもしれないけど(笑)。ディレクターの平田国二郎さんがそう言ってた。
野宮 「洋服のことしか考えてないんですよ、この人」とか言われて(笑)。
鈴木 どちらかといえば、掴みどころのない感じだね。でも洋服はオシャレだしそれで十分だよって当時は言ってたかも(笑)。
ポータブル・ロックとピチカート・ファイヴと
――野宮さんは90年にピチカート・ファイヴのボーカリストになりますが、鈴木さんはピチカートの音楽をどういう風に捉えていたのでしょうか?
鈴木 真貴ちゃんが合流する前に、ピチカートはデモテープを水族館レーベルに送ってきて、それを聴いてすごくポータブル・ロックに近いなと思って。女性ボーカルだし、注目していました。ボーカリストが田島(貴男)君になったり、どんどん変わっていって、変貌していくのでこれは面白いことになりそうだなって思いました。
野宮 ポータブル・ロックのミニライヴを小西さんが観ていて、その時すごい衝撃を受けたそうです。それがピチカート・ファイヴを作るきっかけになったっていうことを、のちに彼は言っていました。「アイドル」(1985年)という曲を聴いてすごく嫉妬したとも言っていました。
鈴木 想像だけど、小西くんはピチカート・ファイヴの最終的な形態としては、真貴ちゃんを入れたいというのがあったのかもしれないね。【後編】に続く