夢グループ20周年、石田重廣社長が語る現在・過去・未来。「常にお客様目線で、面白い事を仕掛け続ける」
石田重廣社長と保科有里が「気志團万博」に登場し大歓声を浴びる
テレビCMでおなじみの夢グループの石田重廣社長と保科有里が11月9日、「氣志團万博」(千葉・幕張メッセ国際展示場9~11ホール)の“OPENING CEREMONY ACT”として登場した。CMでおなじみのふたりの軽妙なやりとりに観客は大喜びで、保科の「安い、安い~」には大歓声が起こった。さらに二人はオリジナル曲「夢と…未来へ」「やすくして○(=ハートマーク)」をデュエットし大盛り上がりの中、万博の開会を宣言し、初日のトップバッター・気志團へとつないだ。
夢グループ設立20周年
老若男女、今や誰もが知る存在になった夢グループの石田社長と保科。今年夢グループは設立20周年を迎え、現在20周年コンサートを全国で開催中だ。往年の人気歌手が集結し、次々とヒット曲を披露する「夢コンサート」は、大きなホールから小さな会場まで全国を隅々まで丁寧に回り、ファンの近くまで会いに行く。ふだんなかなかコンサートに行く機会がない年配者や、ケガや病気で体の調子がいまひとつで、外に出かけることが億劫になっている人も「近くだから行ってみよう」という気持ちになる。気軽に足を運べるとあって人気だ。
夢グループを作り上げた石田社長に、20年の歩みと今後の展望をインタビューした。
狩人のマネジメント会社「有限会社あずさ2号」が出発点。「芸能界に知り合いがいなかったので、毎日違う国で冒険しているようでした」
――元々は通販会社を経営していて、エンターテインメントシーンとは無縁だったそうですね。
石田 そうなんです。シルク製品の宣伝用のチラシに錦野旦さんに出てもらって、それが芸能人の方とお仕事をさせていただいた最初でした。その時の関係者がその後に紹介してくれたのが松方弘樹さんで、その次に紹介されたのが狩人です。
――狩人さんのためにプロダクションを立ち上げます。
石田 「有限会社あずさ2号」を立ち上げましたが、芸能界に知り合いがいなかったので、初めて行った国にいるようで、毎日冒険しているみたいな感覚でした。
狩人を売り出すためにゼロから道を切り拓く
――どうやって仕事を増やしていったのですか?
石田 よく調べなかった僕も悪かったけど、狩人のふたりは前年はほとんどし仕事をしていなかった。往年のスターだから仕事があるものだと思っていました。でも違いました。そこで考えたのがテレビの仕事は無理だから、営業の仕事を増やそうと。企業イベントや各地のイベントやお祭り、ホテルのディナーショーに出演させてもらおうと思って、1ステージ80万円で、2ステージだと160万円のところにわざとバツをつけて、100万円という料金を明記したDMを、全国のホテルや商工会議所5000か所くらいに送りました。
――仕事が少しずつ増えていった。
石田 1年目で100本以上の仕事がありました。2人の収入がそれぞれ3000万くらいになったけど、ひとつ大きなトラブルがありました。イベンター業界から「勝手に価格を明記するな」と言われたんです。それはその人達がホテルや企業に提示していた金額が、僕達が提示している金額より高かったからです(笑)。それは困ると(笑)。それでうちが安い金額で直接仕事を取るようにして、関わっていた業者さんに何パーセントかバックすることで納得してもらって、そこから代理店との付き合いが始まりました。
――テレビ出演は完全に諦めていたんですか?
石田 出た方がいいとは思っていました人脈がないため、どうしたら出ることができるのかわかりませんでした。狩人というと「あずさ2号」「コスモス街道」「アメリカ橋」くらいしか僕は知らなかったので、新曲を作ろうと思いました。そのころタバコのポイ捨てが社会問題になっていたので、2人にそれをテーマにした曲を作ってもらいました。それで区役所に電話をして、何か一緒にできないかと話をしたら、ちょうど街でゴミ拾いのキャンペーンをやるというので、そこに狩人の2人にも参加させてもらえないかと。そこにテレビやスポーツ紙、マスコミを呼んで欲しいとお願いしました。それで街でゴミを拾う狩人の2人はテレビ取材を受けました。
「目的地を決めておけば目標も自ずと決まる」
――社長の突破力がすごいです。
石田 どの道を行けばその国に行けるのかというのと同じように、目的地を決めておけば目標も自ずと決まるように、狩人の仕事を作ることが目標だと思えばどういう仕事を作るか、そのために何をすればいいのか。でも何をすればいいのかといっても僕はゼロからのスタートで人脈もないので、ネタを作ってその情報を不特定多数の人たちに知らせる、それがカタログ、DMだったということです。それで動いているうちに、運がいいというか、様々なイベンターや代理店と繋がることができました。
保科有里との出会い
――「夢コンサート」はいつ頃から始まったんですか?
石田 三善英史さんが参加してくれたタイミングの2006年に、社名を「夢グループ」に変更しました。狩人さん、チェリッシュさん、保科有里さんが合流した頃にコンサートをやってみたら、お客さんが全然入らなくて。
――今や社長のよきパートナーとして、夢グループにCMには欠かせない存在の保科さんとはどうやって知り合ったのでしょうか?
石田 15~16年前に、ある方から保科さんを紹介されて、当時ホテルのラウンジで歌っていた彼女に会いに行きました。歌を聴いて「この人やる気があるのかな」って思っていたら(笑)、エンディングで彼女が客席を回る演出で、僕のところにも来たんです。その時握手をしたら彼女が「よろしくお願いします」って言うので、僕も「はい」って言っちゃって(笑)。そこから今日に至っています(笑)。
「同窓会コンサート」から「夢コンサート」へ
――最初の頃コンサートにはお客さんが入らなくて、そこからどうやって人気コンサートに育てていったのでしょうか?
石田 ある人から「同窓会コンサート」という企画をやりたいんだけど、一緒にやってもらえないかという話が来ました。今から12~13年前だったと思いますが、西城秀樹さんやあべ静江さん、小川知子さん、あいざき信也さんなどが参加してくれましたが、そのコンサートのプロデューサーの考え方に違和感を感じるようになりました。それで「夢グループ」にも保科さんが合流した後も、千昌夫さんや島倉千代子さん、黛ジュンさん、小林旭さん、黒沢年雄さんを始め素晴らしいメンバーが9組程集まってくれていたので、自分達で「夢コンサート」をやろうと始めました。
――軌道に乗ったと感じたのはいつ頃ですか?
石田 やっぱり小林旭さんが入ってきてからは、僕もギアを変えました。それまでは中野サンプラザが一番大きなハコでしたが、東京国際フォーラムホールAでもやりました。
――そうなると色々な歌手の方から夢グループに参加したいと逆オファーが来たのでは?
石田 僕は甲子園を目指していた高校球児だったので、野球と同じように9人でチームを作ろうと。なので9人体制でしばらくやっていました。でもふとアイディアが浮かんで、小林旭さん、黒沢年雄さん、松方弘樹さんもいるのだからお芝居をやろうと。本人達もやろうって言ってくれて、一部が芝居、二部を歌謡ショーにしました。その形で3年くらいやりましたが大赤字で。でもその時は夢グループとしてとにかくいいものを作って、全国の人に観てもらおうという思いが強かったんです。
――でも、大がかりでコストもかかるのでもうやめようと
石田 赤字続きで本当は早くやめたかったけど(笑)、僕の方からやめようとは言いませんでした。というのは、芸能人は個性や我が強い人の集まりなので、和気あいあいとなんて長く続きません。一年経たないうちに必ずもめ事が始まります。それをいつも整理するのが僕の仕事です。
「お客さんに『すごかった』と言ってもらえるショーを作らなければいけない」
――最初に石田社長にインタビューをさせていただいたときに、お客さんをワクワクさせなければいけない、すごいねって言ってもらわなければいけない、それが夢コンサートの根底にあるとおっしゃっていて、それが強く印象に残っています。。
石田 それは今も変わりません。歌い手がよく「今日のお客さんは喜んで帰ってくれたでしょう?」と言います。そんなの当たり前とまではいわないけど、逆を返せば喜んで帰らない方が面白いね、と。本当につまらなかったと思わせてしまったら、そこにヒントがあるんだと。
――次へのヒントですね。
石田 お客さんの2/3はコンサートが終わったらすぐ帰ってしまいます。約束や予定があるのかもしれないけど、逃げるように帰ってしまう。余韻がないからすぐ帰ってしまうと思います。面白かったぐらいでは余韻は楽しめないと思う。やっぱり「すごかった」という言葉が出ないと、そのショーは成功とはいえないと思います。
「往年のスターが次々とヒット曲を歌う“夢コンサート”も、マンネリ化していく。今以上のものを作らなければいけない」
――次から次へとヒット曲を歌ってくれて、全部聴いたことがある、知っている曲でお客さんが感動しても、それでは足りない、と。
石田 そういうコンサートを敢えてやりました。でもそれもマンネリ化してしまうというか、聴き手のことを考えれば、初めは楽しいかもしれないけど、2回3回と観る気になるかというとそうじゃないですよね。その曲にずっと酔いしれるお客さんも稀にいます。でもやっぱり、そこでそれ以上のものを作らなくてはいけないということです。新しいヒット曲が生まれればそれが一番シンプルでいいと思いますが、それは難しい。
「夢コンサート」に小・中学生が来てくれるようになった。「本当は来て欲しくなかった」理由とは?
――驚かすという意味では今、社長と保科さんと、そしてイリュージョニストを迎えてイリュ—ジョンショーをやっています。
石田 今「夢コンサート」に来てくださるお客さんの構成は、上は80代、下は少し広がって50代で、それまでは中高年のためのコンサートというイメージでした。でもテレビCMの影響だと思いますが小学生、中学生が来てくれるようになりました。できれば子供達には来て欲しくなかったんです(笑)。
――それはどうしてですか?
石田 子供たちが楽しみにして来て、でも自分たちの思っているものと違った歌、ショーを観せられた時、がっかりするだろうと思ったからです。今までは子供たちや若い世代が来るコンサートにはしたくなかった。あくまでも60~80代の元気な方が来て、さらに元気になって帰っていくコンサートを作りたかった。僕と保科さんが出したシーデー(CD)も、そういう年代の方に向けたものです。でも想定しなかった世代の人が来てくれるようになって、その人達にがっかりしてもらわないようにするには?って考えると、イリュージョンしかないな、と。
――世代関係なく楽しめます。
石田 “本物”のイリュ—ジョニストと一緒に全国津々浦々を回りたいと思っています。ご家族連れで来てくださる方が多いので、イリュ—ジョンをやって、歌も聴いてもらって、その合間には僕と保科さんで生コマーシャルをやって喜んでいただいたり、とにかくお客さんに楽しんでいただくにはどうすればいいのかを日々考えています。
「昭和の個性豊かな、素晴らしい歌手の皆さんが集まってくださったことに感謝しています」
――夢グループが20周年を迎えましたが、どんな20年でしたか?
石田 生まれた子供が20年間順調に育ってくれればいいけど、ハラハラドキドキでその日その日をどうしていいかって悩んでる人生だった場合に、それはあっという間なのか、長かったのか、ということですよね。振り返ってみてありがたいと思うのは、昭和の素晴らしい歌い手さんがたくさん集まってくれたことです。僕は個性豊かなスターの皆さんを束ねる、指揮者のような存在になれたことは贅沢だなと思います。個性の強い人をうまくマネジメントしていくのが私の仕事で、人を見る目がさらに養われた20年間でもありました。最初は戸惑うこともありましたが、今では各アーティストの個性を活かしながらショーを作り上げることができるようになりました。
「常にお客様目線で、新しいことにチャレンジしどんどん面白いことを仕掛けたい」
――これからの夢グループを教えてください。
石田 昭和の名曲を次の世代に引き継いでいくことも、変わらず私たちの使命だと考えています。そしてお客様が何を求めているのか、何に喜んでくれるのか、常にお客様目線で考えて、それに応えるために新しいことにチャレンジし続けて、どんどん面白いことを仕掛けていきます。