『いつ恋』『わたしを離さないで』テレビドラマは若者を描けているのか?
いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう
フジテレビ系月曜夜9時から放送されている『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』(以下、『いつ恋』)は東京で暮らす地方出身の若者たちが主人公とした恋愛群像劇だ。
華やかな恋愛ドラマが多い月9で放送されているにも関わらず、登場人物の職業が引っ越し屋とヘルパーという肉体労働で、物語が「暗い」というのが特色となっている。
正直、本作を紹介する度に「暗い」という言葉が使われるのを見ていると「暗くて何が悪いのか?」と疑問に思うのだが、それはさておき、いわゆる20代の若者たちを主人公にした本作が、本当に現在の若者を描けているのか? というのは賛否があるのではないかと思っている。
これは「暗い」という言葉とセットなのだろうが、日本の若者の全員が過酷な労働環境で虐げられているというのは被害者意識が強すぎるのではないか? 楽しく青春を謳歌している20代も普通にいる、と思う人も少なくないだろう。あるいは本作で描かれる東京の描写を見て、東京はそこまでひどい場所か? と皮肉る意見も少なくない。
もっとも、その辺りのギャップを一方で若者間の格差として描いているのが『いつ恋』の面白さである。
第六話では、ヒロインの杉原音(有村架純)と付き合っている大企業の御曹司(ただし愛人の息子)である井吹朝陽(西島隆弘)が、ドレスを着てパーティに行くなんて、音ちゃんの年の子(音は27歳)なら当たり前だよ。と言ってブランドモノのバックとドレスをプレゼントするのだが、27歳の女性にとってドレスを着てパーティに行くのが当たり前だと言われるとそれはそれで極端だと思えてくる。
こういった社会的立場や経済的状況によって今ある現実の見え方がまったく違うものに見えてしまい、その結果、価値観を共有できずに同じ若者同士でも分断されてしまう。
かつて一億総中流と言われた時代のテレビドラマなら、もっと漠然とした中流家庭のイメージが共有できただろうし、その延長線上で若者の有り方もある程度共有されていたのだろう。だからこそ、トレンディドラマが高視聴率を獲得できたのだが、今はどんな若者像を描いても、それは若者の一側面でしかなく、当事者には切実でも、それ以外の人にはピンとこないということになってしまう。
同時に、『いつ恋』のようにあまりにも苦しい現実を描きすぎると、今度は身につまされるから見たくない。という反応につながってしまう。
おそらく本作は、主人公たちと同世代の若者や同じような低賃金労働を強いられている職業の人たちからは必ずしも好意的には受け取られていないだろう。同じような境遇で苦しんでいるのに「ドラマの中でまでそんなものは見たくない」という感覚を否定することはできない。
もちろん、そういった評価とドラマ自体の評価は別に考えるべきだが、テレビドラマがある世代のライフスタイルのロールモデルと提示するという作り方がどんどん厳しくなっていることは確かだろう。
そんな状況下であえて今の若者を描こうと孤軍奮闘する本作が、最終的にどこに辿り着くのか、固唾を呑んで注目している。
その意味で若者という全体像をドラマで示すことが難しい昨今だが、対となる別の世代を配置して鏡に映すことで浮かびあがってくる姿もある。
高齢者と若者 日本介護士福祉士協会からの寄せられた意見書から見えてくる現実。
先日、『いつ恋』の劇中での老人介護施設の描写に対して日本介護福祉士協会から「配慮」するようにという意見書が寄せられた。
ヒロインの音はヘルパーとして働いているのだが低賃金労働で人出が少ないために終始動き回って、老人のサポートや風呂やトイレの掃除をする音の姿が描写されている。
この描写を見た視聴者から、同会に対して、あのような職場環境なら、身内に介護資格習得を辞めさせたいという意見が複数届いているという。
確かに音の上司の描写などはやや露悪的で、介護という仕事の暗部を極端な形で描写しているとも言えなくない。ただ、児童養護施設の描写をめぐって批判された『明日、ママがいない』(日本テレビ系)にくらべると日本介護福祉士協会の意見書は、あくまで「ご理解いただきたい」というスタンスであって、そこまで押しの強いものに感じなかった。
『いつ恋』に対する「配慮を求める」という意見が弱々しく感じるのは、12月に起きた川崎市の老人ホームでの連続転落死事件がこちらの念頭にあるからかもしれない。
老人たちを転落事故に見せかけて殺害した容疑者とされているのは23歳の元・男性職員。「介護の仕事でストレスがたまっていた」と犯行理由を語り、老人たちに対して「手のかかる人だった」と供述しているという。
この青年が起こしたこの事件はあくまで特殊事例だが、職員が施設の高齢者に対して虐待を加えていたという事例は多数ある。
もちろん、健全な経営が行われている介護施設の方が多いだろうと思いたいのだが、『いつ恋』の描写に較べれば、一部の現実の方が、とんでもないことになっているのは間違えない。
『いつ恋』で暗に描かれているのは、「高齢者世代から経済的に搾取されている若者」という構図だが、4人に1人が65歳以上という今の日本において高齢者批判というのは最大のタブーである。それは選挙の影響力を見ても明らかであり、いわゆる週刊誌のほとんどが50代以上の高齢者を読者としてターゲットにしているのは、60代からのセックス特集や、介護や遺産相続の特集ばかりやっていることからも明らかだろう。
人口が多かった団塊ジュニアがアラフォーとなった今、彼ら元若者に向けた若者向けカルチャーは盛況でも、彼らより下の現役若者世代となると少子化もあって人口はどんどん減っており、商業的影響力はどんどん低下している。
また非正規雇用の若者も多く、大学入学時に借りた奨学金の返還で苦しんでいるケースが多いこともあって、経済的貧困が若者たちを覆っている。晩婚化が進んでいると言う問題も突き詰めれば経済問題である。
つまり若者は、政治的にも文化的にも経済的にも人口比の問題で初めから高齢世代に勝つことができない。しかし体力と肉体の若さによる時間だけはあるのだ。
だから、文化的経済的政治的には劣位だが、だったら力で圧倒すればいいのではないか。と思う若者が今後でてきてもおかしくないと思う。そんな想像を抱かせたのが川崎の老人ホームで起きた殺人事件やヘルパーによる虐待だ。今後、若者に経済的な余裕がなくなっていけば「お年寄りは大切にしなければいけない」という共通認識自体が揺らいでいくのかもしれない。
わたしを離さないで
一方、特殊な設定を用いることで、搾取される若者たちの困難を描こうとしているのがTBS系金曜夜10時から放送されている『わたしを離さないで』(TBS系)だ。
カズオ・イシグロの原作小説をドラマ化した本作は、特殊な施設で育てられた子どもたちの物語だ。
子どもたちは、臓器移植をおこなうために作られたクローン人間で、施設を出たのち、臓器の「提供者」となることが宿命づけられている。一方、提供者の一部は「介護人」と呼ばれる提供者のサポートを仕事とすることが許されている。
介護という言葉が使われていることもあってか、本作を見ているとSF的な設定を使って『いつ恋』が寓話的に描いた老人と若者の非対称な対立関係を描いているように見えてならない。
クローン人間たちは、提供者となる前に「コテージ」と呼ばれる共同宿舎で同じ境遇の男女たちと暮らすようになる。
そこでは、自然と男女のカップルが成立し、あるものはサッカーなどの趣味に没頭し、あるものは恋愛とそれに伴う性行為に没頭するのだが、あらかじめ提供者となることが決められている彼らにとって、どの行為も将来には直結しない。
また、執拗に描かれるのが閉じた施設の中で同質の若者たちが閉じ込められていることで起こるいびつな人間関係で、それらを見ていると嫌でも学校でのいじめを連想してしまう。その意味で提供者になるまでの期間は若者が社会に出るまでの学生時代の戯画化に見える。
劇中では提供者同士のカップルが本当に愛し合っていることを証明すれば三年間自由に過ごせる「猶予」という隠れた制度が存在するのではないかと言われているが、こういった恋愛幻想自体、残酷な制度を覆い隠す偽りの希望に見えて、多くのフィクションで描かれる恋やスポーツといった青春にいそしむ学園ドラマの持つ欺瞞を暴いているかのうようだ。
物語は幼少期からの幼なじみである三人の若者の一人が介護人となり二人が提供者となった中で、残り少ない人生をどう生きるのか。という方向に向かっているのだが、どう見ても理不尽な状況を感動的な物語に仕立てようとしている本作のスタンスには抵抗を感じるが、それでも寓話という形式を借りることで、今の若者を描こうという誠実さは理解できる。
将来提供者となる子ども達は教師から、あなたたちは生まれながらにして使命を持った“天使”なのだ。と言われて、提供者となる自分たちがいかに素晴らしい存在なのかを洗脳に近い形で叩き込まれる。
このような美しい言葉で残酷な現実を覆い隠そうとする姿自体、介護業界の置かれている現状と重なる部分があると言える。
『進撃の巨人』と日本国憲法第13条
本作を見ていると少年漫画の『進撃の巨人』(講談社)を思い出す。
壁に囲まれた街に攻め込んでくる巨人の群れと戦う少年たちの物語だが、物語冒頭の壁に囲まれた施設で外は敵でいっぱいで危険だと教えこまれる描写や、映画版『進撃の巨人』で主演を務めた三浦春馬が出演しているために、そう思うのかもしれない。
『進撃の巨人』の敵が壁の外の巨人と壁の内側にいる為政者だとすれば、『わたしを離さないで』における敵は、生まれた時から決定されている社会制度だ。
提供者の生存権を主張する運動に参加している遠藤真実(中井ノエミ)は、保科恭子(綾瀬はるか)に日本国憲法第13条が書かれたメモを渡す。
「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」
その後、真美は公衆の面前で、提供者の私たちは家畜なのか? と主張して絶命する。
皮肉なことに彼らを追い込んでいる最大の敵こそが「公共の福祉」なのだ。