「報じる」ことと「言いふらす」ことは違う。星野源さんが巻き込まれた騒動からたなびくもの
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5月22日午後10時ごろ、星野源さんを思わせる人物のスキャンダルがSNSに書き込まれたことに対し、星野さんの所属事務所「アミューズ」が憶測を完全否定するコメントを出しました。
インターネット上での書き込みは日々無数にアップされています。その中には本当にひどいものも多々あります。
ただ、事務所がそれに反応することは滅多にありません。なぜなら、事務所がコメントを出すなどの正式な動きをすれば、それ自体がニュースになる。その結果、当初の書き込みを知らなかった人にも広く知られることになる。
「腹立たしく由々しきことだが、相手をするほうが要らぬが余波が生まれかねない」
そんな思いから看過しているのが圧倒的多数です。
ただ、今回は書き込みがあってからわずか数時間、23日午前3時半ごろにアミューズ法務部のアカウントで「星野源に関してそのような事実は一切ありません」と完全否定する流れになりました。
相手をしない。それが基本的には妥当な策なのかもしれませんが、今回はあまりにも広がり方がすさまじく、1秒1秒星野源さんの商品価値が棄損されていく。それは食い止めなければならない。その強い思いが午前3時台という企業からの発表としてはレア中のレアの時間帯につながったとみられます。
日々取材、執筆をする者として、今回の件には今の世の中における情報発信のあらゆる問題が詰まっていると感じました。
先述したように、SNS、YouTubeにはあらゆる書き込み、発信があふれています。何か注目のニュースがあれば「この話の黒幕はコイツだ!」「今後、必ずこの話はこうなる!」など刺激的な文言をまぶしたものがアップされます。
見る側からすれば、断定的に、ズバズバ語っている。そうなると「ここで語られていることが本当なんだろう」と思う人も出てくる。激辛パウダーや濃厚な調味料をたっぷりまぶした“味付け”に慣れてしまうと、新聞やテレビを見ると薄味に感じる。
「ネットにはここまで出ているのに、テレビでは全く触れていない」「また忖度か」「だからマスコミは信用できないんだ」「マスコミはマスゴミだ」といった言葉が、そんな流れから生まれてもいるのだと思います。
旧ジャニーズ事務所問題など、マスコミの在り方が問われることが近年増えています。情報という極めて大切なものを世間に行き渡らせる。大きな役割を担っているマスコミの形と仕組みをしっかり考えなければならない。これは間違いないことだと思います。
その一方、情報を受ける側の吟味する力も、いよいよ問われている。それを痛感します。
メディアリテラシーといった言葉で情報を精査することの重要性は、以前からこれでもかと言われてきました。そんな概念、もう手垢がつきすぎて原型が分からなくなるほどの状況かもしれませんが、それでも今一度本気でそこに向き合わないと芸能ゴシップ云々ではなく、もっと大きな社会のうねりにつながる危険性を含んでいると強く感じます。
あるカテゴリーをひとくくりにして語るなんてことは非常に乱暴で、ノーセンスなことです。ネット上の情報にも目を見張るものもあるし、大手メディアの取材体制でも首をかしげるしかないものもあります。
ただ、メディアが何か情報を出すことは「報じる」ということです。ここには多くの人間の目が入っています。現場で取材する記者。情報をまとめるデスク。その流れを統括する部長。さらにその上の責任まで考える局長やその他のコンプライアンス的部署。そういった人間があらゆる角度から精査をして情報を出します。
そうやって多くの人の目が入るから忖度が生まれるんだという声もまたあるのかもしれません。それはそれで議論されるべきですが、報じることには大きな責任が伴う。ここは紛れもない事実です。
まず情報が本当なのか。本当であったとして、それで傷つけられる人権がないのか。そういったものを考える。ここは非常に重要なことです。
居酒屋さんで友だちとお酒を飲みながらアレコレ話す。もちろんここは好き勝手に話をすればいいと思いますが、今は世間に向かって発信するツールが多々ある。そこに向けて発信したならば、それは話が違ってきます。
「報じる」ことと「言いふらす」ことは違う。そして「報じる」中にもいい加減なものがあるかもしれない。情報があふれる世の中だからこそ、玉石混交の中で何が玉で何が石なのか。多くの人が「ん?」と違和感を覚えるセンサーを携えておく。
メディアの在り方を再考するとともに、それも両輪として非常に大きなことだとつくづく思います。