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WBC世界フライ級新王者、八重樫東を勝たせた信頼する力

本郷陽一『RONSPO』編集長
「僕みたいな小さい人間でも強くなれる」とリング上で八重樫は吠えた

大橋会長が授けたコリアンファイター作戦

緑に輝くチャンピオンベルトを肩から下げた八重樫東は、大橋秀行会長に泣きながら聞いた。

「会長! 夢じゃないっすよね?」

大橋会長は、ほらっと言って、八重樫のほっぺをつねった。

ほろ酸っぱく痛かった。

「何日か前に、チャンピオンになった夢を見たんです。だから、なんか、それとごっちゃになって、本当に夢じゃないんだって」

WBC世界フライ級チャンピオンになった八重樫は、そう言って細い目をまた細くした。

作戦は決めていた。

名付けてコリアンファイター作戦。

八重樫はサウスポーが苦手である。黒沢尻工業高校、拓大と通じたアマチュア時代にサウスポーの五十嵐俊幸に4連敗。

それがサウスポーアレルギーのトラウマだったのかもしれない。

金メダリスト、村田諒太と、「八重樫がサウスポーを苦手なんだ」という談義をしていた時、「ボクシングはじゃンけんみたいなもの。グーは永遠にパーに勝てないんです」と語っていた。

八重樫は、スパーリングでアマチュアのサウスポーを相手にしても一向に苦手意識が消えなかった。簡単に言えばパンチが当たらないのである。

「ダメっすね、感覚つかめないっす」

この頃、何度か、八重樫の嘆き節を聞いた。

みかねた大橋会長は一枚のDVDを差し出した。大橋会長が、現役時代2度対戦して勝てなかった韓国の国民的ヒーロー、張正九がイラリオ・サパタ(パナマ)の持つWBC世界ライトフライ級王座に2度目の挑戦で3回KO勝利した試合である。韓国の偉大なるボクサーは、ガニ股歩きのようなステップで前に出続けて、相手の懐に入り、パンチを浴びせ続けた。

「相手のうちがわに潜り込んで、パンチを雨あられと打ち込む。サウスポーに出入りをさせない。ベタベタと歩くようなステップを踏んで潰しにいくボクシング」

大橋会長の解説は。わかりやすかった。

韓国に乗りこんでコリアンファイターとの対戦経験のある元サウスポー、松本好二トレーナーも、「サウスポーは、それをやられたら嫌。多少、入る時にリスクはあるが、両側から追い込むようにしてステップを踏んでインサイドに入る。正面に立つ怖さはあるが、沈みこんでガードを固めて、そのリスクを回避する。そこで得意のパンチの回転力を利用する。多少は打たれるだろうが、それしかない」と、コリアンスタイルでスパー、ミット打ちを繰り返してきた。

切れ味のあるステップワークとスピードが武器の五十嵐にポイントアウトのボクシングを徹底されれば、ジャッジのペーパーは、永遠と「10対9」で五十嵐を支持し続けて終わるだろう。その五十嵐のスタイルを破壊するにはコリヤン作戦しか手がなかった。  

帝拳陣営が、視察にきた公開スパーでは、韓国式のステップを完全に封印。サンドバックを打つ時でさえ隠した。松本トレーナーは、わざわざ、通常のボクサーがサウスポー対策に行う、外に踏むステップをおおげさにやらせてみたりしていた。

ベタ足殺法を事前に隠すことは必須だった。

そして、この作戦には、もうひとつ必要なものがあった。

体を沈みこませるようにして、インステップして中に入るための強靭な下半身、そして、入る時に2階級上のパンチを被弾してもダメージを残さない肉体作りである。

八重樫は、1か月ほど前に、奥さんとお子さんが、インフルエンザにかかった。食事の世話などを全部せねばならなくなって本格的なフィジカルトレーニングに入る時期が遅れた。土居進トレーナーは、「2週間、早く入れればもっとできたのに」と悔やんでいた。だが、それを取り返すかのように土居トレーナーが組んだ下半身強化メニューに根をあげずについていった。重たいメディソンボールを使い、筋肉を多様に使いながら下半身を鍛えた。大橋会長、松本トレーナー、土居進トレーナーが、見事な連携を持って八重樫を支えた。八重樫の「この人たちについていけば勝てる」という信頼も揺るがなかった。これらの準備も、いざゴングが鳴って八重樫が、臆すれば、すべてが水の泡になるのだが、チーム八重樫の面々は、「おまえならできる」と、洗脳に似た自信を与え続けた。

強く結ばれた信頼は、勝利への絆となって結実へと向かう。

試合直前の控え室で、大橋会長は韓国に国際電話をかけた。親交が続いているかつてのライバル張正九を呼び出して八重樫と代わった。

「八重樫に直接、激励してもらった。張正九が、何を言っているのか、八重樫にはわからなかっただろうけど(笑)」

ハングルはわからなかったが、コリアンスタイルで闘う決意は、確固たるものになったはずだ。

勇気を振り絞ったインファイトとソナギボディ打ち

挑戦者の八重樫は、いつもの入場テーマ曲、AK―69の「MOVE ON」で入ってきた。井岡との統一戦で敗れ腫れた顔をプリントしたTシャツ姿である。チャンピオンの五十嵐は真赤なエナメル製の生地で作られたロングガウンで不敵な笑みを浮かべてリングインした。親交のある聖飢魔のスペシャルバージョンの入場曲が見事にリンクして華やいで見えた。

片やアテネ五輪代表の看板を引っさげてプロ入リチャンピオンになったエリートボクサー。片やアマチュア時代、その五十嵐に4度敗れ、初挑戦の世界戦ではアゴを折られ、井岡との統一戦では、良き敗者と評価を上げたが、ベルトは失った無冠のボクサー。

両国国技館の声援も帝拳主催の興行だけに五十嵐応援団の方が多く思えた。

乾いたゴングの音が響く。八重樫は、体を沈みこませ、作戦通りにぐぐっと前に出た。ガードを固めたままインサイドに入りこむ。

敵陣に入ると、つかさず右、左のフックを浴びせる。ガードが邪魔になると、横殴りにボディ、またボディ。

「中に入ることは、正直、怖かったです。でも、それしかなかったから」

インサイドに入る時に背負うリスクは、五十嵐に右手で突き放される、もしくは、バックステップで距離を取られて被弾することだった。しかし、五十嵐は、無防備に八重樫の射程圏内への入室を許してくれたのである。

「両手でとっつかまえて、殴るんです」

まさに八重樫は、とっつかまえて殴った。

出会い頭の左フックがヒットした。ベタベタと歩くようにして前に出てノーモーションの右も当たる。

思い描いた通りの展開である。 4ラウンドが終わるまで、五十嵐は、まったく手が出ない。それでもジャッジは、どう判断するかわからないという不安はあった。完全なアウエー戦である。

公開採点は、2人が八重樫にフルマークをつけていた。

大橋会長は「これなら行ける!と確信した」という。

採点の不利を聞いて、5ラウンドからは、五十嵐が前に出てくる。至近距離でのゴチャゴチャの展開となって先に五十嵐がバッティングで目を切った。6ラウンドには、八重樫が右目を頭で切った。両者のトランクが返り血で紅くなり始めた。

消耗戦。激闘の様相である。

しかし、五十嵐が前に出てくると、カウンター気味に八重樫の右が当たり出した。

「人生でこんなに打ったことがないというくらいボディを打ちました」

とにかく手を休めない。

張正九は、ソナギパンチ(夕立のような連打のパンチ)と呼ばれるほど手を出し続けるボクサーだった。

八重樫は、春のソナギパンチを打ち続けた。

「うッ」

「うッ」

ボディをめりこませる度に五十嵐のうめきが聞こえていたという。

7ラウンドには、右ストレートに手応えがあった。

「倒してやろう」と、狙いにいった。そういう野心がパンチにこもると当たらなくなる。それでも距離もタイミングも八重樫が支配していた。

8ラウンド、五十嵐のパンチがショートに変わった。中間距離から細かく打ってくる。それは五十嵐のリーチがちょうど届く場所だった。八重樫は一発ボディを利かされた。 ロープ際、左のストレートから右のコンビネーションを食らってぐらついて見えた。

大橋会長の心の中に「やばい。利かされた。ここから後全部取られて流れを逆転されるかもしれない」と不吉な予感が走ったという。

「でもパンチはなかったんです。8ラウンドもボディは効いたけれど、パンチは後頭部なんで、大丈夫でした」とは、八重樫の回想。

ここが、ペースの奪い合いの分岐点だったに違いない。8ラウンドが終わっての採点は、75-74、76-73、77-72と、三者が八重樫。

インサイドに入って右のスイング系のパンチ。

9ラウンドから八重樫は、そのパターンを徹底した。

とにかく右が当たった。11ラウンド、カウンターの右が当たって、五十嵐は腰をガクンと落とし、膝をつきかけた。ここぞとばかり八重樫は、ラッシュを仕掛けた。もんどりうって、五十嵐は2度キャンバスに倒れたが、いずれもスリップのジャッジ。

「個人的なリベンジ、倒してやる」

狂気のスイッチが入ったのだろう。力みが生まれた。

グロッキー寸前のチャンピオンは大振りのパンチに急所をさらずほど自尊心を失ってはいなかった。五十嵐もまた意地で立った。

2人の真赤に燃えるような執念がぶつかりあった。

最終ラウンド。もう五十嵐には、逆転KOの道しか残されていなかったが、八重樫は最後の最後までコリアンスタイルを貫く。

前へ。

前へ。 

ひたすら前へ。

ゴングが鳴ると、もう松本トレーナーが八重樫を肩車していた。

115-110、116-109、117-108。

アナウンサーの判定は、ほぼワンサイドの勝利を示した。

コリアンスタイルを貫き通した八重樫と、それに対して何もできなかった五十嵐。聞くところによると13キロを超える減量があったとか。エディタウンゼント賞、授賞トレーナーの藤原俊志は、「減量が影響するのはバネなんです」と言っていた。減量苦が、五十嵐のバックステップのバネを奪いとってしまっていのかもしれない。だが、私は、2人の信念の力の差が、生み出したポイント差に思えた。

八重樫の著書「我、弱き者ゆえに。弱者による勝利のマネジメント」(東邦出版)のプロデュース、制作のために、当時、無冠だったボクサーに密着取材を続けてから8か月が過ぎようとしていた。

目に絆創膏を張った新チャンピオンは「ほら、言った通りのことやったでしょう」と、少々、自慢気に握手を求めてきた。

土居トレーナーは「僕としては逆に密着されて体格差を利用されるのが怖かったのですが、そういう距離のボクシングにならなかった。思い描いた通りのボクシングができたし、2階級アップのハンディがそれほど出なかった」とホッとした顔をした。

松本トレーナーは「やろうとしたことが全部できた。これほど、すべてがはまる試合は珍しい。八重樫はたいしたもんです」と、満面に笑みを浮べた。大橋会長、松本トレーナー、土居トレーナー、そして八重樫の4人は、仲良く記念撮影に収まった。

山中―ツニャカオの試合が行われてる間にシャワーを浴びた新チャンピオンに大橋会長は、次なるビジョンを示した。

「次は井岡戦か」

「え? またひとつ階級落とすんですか?」

八重樫が、そう聞き返すと、「違うよ。チャンピオンとして受けて立つ。今度はアウエーでなくホームでな。いや、その前にエドガー・ソーサとの指名試合だ」と、冗談か本気かわからない表情で、大橋会長は答えた。

新チャンピオンは、勘弁して下さいよというような表現を浮べた。

「一難去って、また一難です」

控え室が笑いに包まれた。

大橋会長が‘モンスター’と称する井上尚弥も、‘ホープ’松本亮も笑っていた。

チーム八重樫の絆の強さを示すような明るい笑い声だった。

『RONSPO』編集長

サンケイスポーツの記者としてスポーツの現場を歩きアマスポーツ、プロ野球、MLBなどを担当。その後、角川書店でスポーツ雑誌「スポーツ・ヤア!」の編集長を務めた。現在は不定期のスポーツ雑誌&WEBの「論スポ」の編集長、書籍のプロデュース&編集及び、自ら書籍も執筆。著書に「実現の条件―本田圭佑のルーツとは」(東邦出版)、「白球の約束―高校野球監督となった元プロ野球選手―」(角川書店)。

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