人は働くことをやめるために働くべきだ
人は、自分に固有の価値を実現するために生きていて、他人のために働くのは生活費を得る手段にすぎないのですから、余生の生活費を満たすだけの資産が形成された段階で、働くことをやめて、後は資産に働かせて、自分に固有の価値実現に専念すべきではないでしょうか。
生きる目的
人によって、生きる目的は千差万別でしょうし、それを自覚する程度も、そこに執着する強さも様々に異なるでしょうが、人が人であるためには、生きる目的がなくてはならず、目的をもたずに端的に生きる、即ち、運命が自分の前に勝手に開く未来の可能性に対して、現在の自分の全てを賭けていく人がいるとしても、そのような哲学的な生き方自体、その人の生きる目的とみなすことができます。
しかし、人は、そのような精神的な目的の追求のためには、肉体的生存を保持しなければならず、そのためには生活費を必要としますから、働かなくてはならないのです。こうして、働くことが生活費を得ることだとしたら、それは、生きることの目的ではなくて、その手段にすぎないわけです。要は、人は生きるために働くのであって、働くために生きているわけではないということです。
天職と必要悪
生きる目的を追求することで、同時に生活費も得られる人、即ち生きる目的が働くことになっている人は、いわば天命によって職務を授けられた人として、天職を得た人と呼ばれるのです。天職を得ることは幸福であり、幸福な人について論ずべきこともないのですが、そのような幸運に全ての人が恵まれるわけではなく、論ずべきは天職を得ない普通の人のことです。
実は、全ての人が天職を得るべきだ、そのために努力すべきだという思想が根強くあります。歴史的に、支配者は、被支配者を働かせるための論理として、働くことこそ人の生きる道だという道徳観の普及に意を凝らしたでしょうし、民主主義の時代になってすら、経済成長神話のもとでは、働くことのなかに生きる喜びと価値を見出すべきだという思想の喧伝がなされてきたのです。
その効果は強力なものであって、現時点においてすら、働くことは生活費を得るための必要悪であって、自分の人生の全ては趣味にあるといい放つことには、多少の罪悪感を伴うわけです。しかし、ピアノを弾くことのなかに真の自分自身を見出す人は、それによって生活費を得ることのできる幸福な少数者を除いて、所得を得るための別の仕事をするわけですが、その仕事は、どう考えても、必要悪以外ではあり得ません。
趣味の仕事の非効率
働くこと、即ち生活費を得る活動を主とし、自己実現としての趣味における活動を従とするからこそ、余暇を趣味に充てることになるわけですが、それは伝統的な働くことの価値観のうえで生じた転倒であって、自己実現の趣味活動こそ人生の主たる領域なのですから、働くことは、その余暇における付随的な必要悪にすぎないのです。そして、必要悪だからこそ、働くことの生産性が高くなるわけです。
高い生産性とは、同じ量の仕事なら、最小の時間で完了させ、同じ時間なら、最大の成果を創出することですから、自己実現活動に使える時間の最大化を目指す人は、仕事のうえでは、生産性の高い人になります。好きではないけれど必要なことだからこそ、そこに効率化の利益誘因が生じるからです。
趣味などの自己実現活動は、そもそも、経済的価値に還元できないものですから、そこに生産性を論じる余地はありません。逆に、仕事が趣味だという人は、仕事のなかに非経済合理的なこだわり、即ち無駄を取り込むことで、仕事を楽しむわけですから、実は、生産性が低いのです。おそらくは、ここに、日本の生産性の低さの根本的な原因があるのでしょう。
生き方改革
生きる目的のない人はいるはずもないのですが、それを自覚できていない人は少なくないでしょう。少なくないというよりも、むしろ、それが普通なのかもしれません。こういう人にとって、働くことは当然に必要だとしても、実は、他にすることもないから働くという構図になっているのだと思われ、それが生産性の低い働き方、即ち、よくいわれるように、働く時間が長くなる一方で、成果を生まない働き方に帰結しやすいのだと考えられます。そこで、働き方改革よりも、生き方改革が必要なのです。
経済の成熟に伴って、豊かさの定義は、物質的豊かさから、精神的な豊かさに替わるのでしょうが、日本は、まさに、その転換点にあって、故に、成長戦略は、物質的な豊かさの追求を原動力としたものから、精神的な豊かさの追求を原動力としたものに変わっていかなくてはならないのです。このことは、従来からの言葉使いでは、余暇の過ごし方の改革であり、それが働き方改革だとされてきたのです。
このことを、ここでの言葉使いに改めれば、人は、生きる目的として、自覚的に自分に固有の価値の追求を行うとき、一方で、生活費を得るための働き方において生産性が改善し、他方では、人によって自己実現のあり方は極めて多様であり得るにしても、その価値の実現が社会的価値の創造になれば、必ずや何らかの経路を通じて経済成長に貢献するはずだということになります。
従来の経済成長神話のもとで形成された価値観、即ち、人は働くことのなかに生きる目的を見出すべきだという思想は、未だに働く人の意識の深層に強く残っているのです。そして、それが一種の抑圧となって作用し、働くことは生活費を得ることにすぎないにもかかわらず、それを無意識のうちに否定し、働くことが目的であるかのように思わせ、自分の生きる真の目的を隠蔽してしまうのです。
こうした現状に対して、働き方改革においては、半ば強制的に働く時間を短くすることで、一方で、生産性向上、即ち、短くなった時間で同じ成果をあげる努力が促され、他方で、増加した働かない時間を過ごすうちに、何らかのきっかけで、人は本来の自分の生きる目的を発見すると期待されているのでしょう。
働く必要性の再検討
自分の生きる真の目的との関係において、将来の生活費を推計するときは、もはや働く必要がなくなっている人も、老後生活への漠然とした不安や、他にすることも見出せないでいるために、働き続けているのです。そして、こうした人が数多く存在しているとしたら、その人々が働く必要のある人の仕事を奪っている可能性があります。
また、働く必要のない人からは低い生産性しか期待できず、それらの人が高い生産性の期待できる真に働く必要のある人を排除しているとしたら、生産性は二重に低下しているはずです。特に、地方においては、この構図のもとで、仕事を見出せない若い人が都市部へ流出して、地方の衰退を加速させている可能性もあるわけです。
それに対して、生きる目的を明確化することで、それに必要な将来生活費の推計が可能になり、それを事前に形成する努力が促されれば、人は早期に仕事をやめていきます。
生きる目的によって、必要な生活費の額は大きく異なっていて、逆にいえば、生きる目的が明確にならなければ、生涯の生活費の推計もできないということです。しかし、仮に、生涯の生活費の推計ができていて、働きながら将来の生活費に充当する資産の形成に努めるとしたら、どこかの時点で、形成された資産を運用し、また取り崩すことで、余生を暮らせるようになるときがきます。
人は、この時点において働くことをやめ、その後は、自分に固有の価値実現のために、生きる目的のために、生きるべきではないでしょうか。つまり、人は、働くために生きるのではなく、働くことをやめるために生きるべきなのではないでしょうか。
働くことをやめるために働く
最短の時間で生涯の生活費を形成できるように働く、これぞ最も生産性の高い働き方です。そして、既に働く必要のなくなった人が早く仕事をやめ、まだ働く必要のある人に仕事を譲ることで、社会全体としての生産性も改善するはずですし、仕事をやめて自己実現に努める人は、何らかの社会的価値を創造することで、経済成長に貢献できるのです。
また、これで資産形成の真の意味が明らかになります。資産形成の収益率が高ければ高いほど、人は早く仕事をやめられます。これからの金融の真の使命は、資産運用の高度化を通じて、早く仕事をやめ、自己実現に没頭できるように、働く人を支援することなのです。