【徳川家康の影武者伝説】家康はどのタイミングで影武者と入れ替わっていたのか?
戦国武将たちは自分の身を守るために影武者を立てるのはよく聞く話です。
写真技術がなかったこの時代は、名の知れた武将や大名たちであっても、その顔を把握しているとは限らず、影武者はとても有効な手段でした。
『甲陽軍鑑』には武田信玄の弟・信廉が影武者を務めていたと書かれています。他には平将門や公卿の名前など戦国以外の時代でも影武者がいたようです。
今回は色々な影武者伝説の中から徳川家康について紹介します。
徳川家康の影武者伝説
家康の影武者伝説には桶狭間の戦いで家康が戦死し、すでに違う人物が家康として君臨していた、関ヶ原の戦いで討たれて影武者が立てられた、大坂夏の陣で真田幸村と交戦し敗北して逃走中に槍で突かれて堺の南宗寺にて死亡したなどの多くの説があります。
桶狭間の戦い後入れ替わり説
この説では桶狭間の戦いでの今川義元討死の混乱の中、独立を果たした松平元康が不慮の事故で亡くなった。この時に、影武者として駿府出身の世良田二郎三郎元信に松平氏の家督を代行させるというもの。
1579年の信康・築山事件では影武者家康と信康に血のつながりがなかったので、この出来事は渡り船でした。信康を処断したことで影武者家康が完全に徳川家の実権を握る事になります。
その事件が尾を引いて、1585年の石川数正出奔につながったとも言われています。数正は信康の後見人として岡崎衆を率いて補佐を務めていたので、この事件で誰よりもショックを受けたのは数正でした。徳川家の家督は信康が継ぐものだと誰よりも信じていた事から、このやり方にひどい憤りを覚えたに違いないと考えられています。
しかし、これだけでは世良田二郎三郎元信が影武者と言う考えには至りません。
気になるのが将軍職を秀忠に譲った後の家康の対応です。
駿府の地で実権を握って院政じみた事をし、久能山に自らを埋葬するために東照宮を作りました。駿府が戦略上重要な場所であったとしても、家康の出身地である岡崎に対する対応があまりにもドライな気がします。
直轄地にするなら分かりますが、岡崎城は本田康重に任せています。これでは松平家のルーツが岡崎というのはわかりません。影武者だった世良田二郎三郎元信は、駿府の生まれで入れ替わりが本当なら天下統一後の行動全てに合点がいきます。
関ヶ原での討死説
徳川幕府公認の『徳川実紀』には「野々村四朗右衛門が馬上から家康に切りかかってきたので斬った」と書かれており、これが関ヶ原説の根拠とされています。
野々村は家康の使番で伝令や観察、敵軍への使者なども務め、日ごろから家康の近くにいて信頼も厚かったと思われます。そんな人物が突然謀反を起こして家康に切りかかるとは考えにくいことから、忍びが入れ替わっていたと考えられます。
生死は書かれていないので真意はわかりません。もしかしたら、この事件に尾ひれがついた噂で広まったのかもしれません。
もし家康が関ヶ原の戦いで暗殺されていたのなら、江戸幕府を開いて豊臣家を滅亡させた人物とはいったい誰だったのでしょうか?
やっぱり影武者が家康のふりをしていたのでしょうか?
信憑性は低いですが一説によると用済みとなったのでてんぷらに毒を盛って殺害したと言われています。
大坂夏の陣死亡説
大坂夏の陣死亡説では、真田幸村に茶臼山に攻め込まれ激戦のうちに敗走。その途中で槍で突かれ負傷し、堺の南宗寺に着いた頃にはこと切れていたという説があります。
大阪堺市にある1557年創設の臨済宗大徳寺派の南宗寺に上記の伝承があり、3代将軍宣下の折にそれぞれ秀忠と家光が参詣した記録も寺にある事で信憑性が増しています。
以上が徳川家康の影武者伝説で、これらの説は証明されていないのですべては謎のままです。個人的には『南宗寺の説』が少し信憑性があるように感じます。
物語としてはとても面白い題材なので、様々なメディアで取り上げられています。私が好きなのは原哲夫さんが書いているマンガ『影武者 徳川家康』は面白いので、機会があれば皆さんも読んでみてください。