「M-1」の“あれは漫才なのか論争”から透けて見える「笑ってられないこと」
今年の「M-1グランプリ」は「マヂカルラブリー」の優勝で幕を閉じました。
しかし、そこから余波が生まれてもいます。
「マヂカルラブリー」が決勝で披露したネタが、漫才なのか、漫才ではないのか。そんな“論争”が起こっていると言われています。
実際、この件に関して、僕も各方面からコメントや情報を求められる流れがありました。
「論争の原因は何だと思いますか」
「“漫才である”“漫才ではない”。それぞれの側に立つ芸人さんの話を教えてもらえますか」
「最終決戦で上沼恵美子さんが『マヂカルラブリー』に入れなかった。それが論争の発端となっているのでしょうか」
何をどう答えていいのか。正直、全く分かりませんでした。
それはなぜなのか。
“論争”なんて起こっていないから。その言葉に尽きます。
「M-1」が終わってから、ありとあらゆる芸人さんと「M-1」の話をしました。
ただ、その中で“漫才なのか論争”なんて話は一ミリも出ませんし、そんな空気も、気配も、発想も、ニオイも、微粒子も何一つありません。
漫才も、コンビも、十人十色。そんなことは芸人さんが一番分かっている。そして、若手漫才の日本一を決める「M-1」で「マヂカルラブリー」は優勝した。誰よりもその意味が分かっているからこそ、芸人さんからそんな話が出るわけがない。
もちろん、そういうネットの書き込みやSNSでの発信があるのは間違いありません。それをもって“論争”という言葉に置き換えている記事も散見されます。
そんな中、12月24日放送のフジテレビ「バイキングMORE」で「M-1グランプリ2003」王者である「フットボールアワー」の岩尾望さんがコメントをしていました。
・「M-1」に出て戦っている芸人で文句を言っている人間はいない。
・もし、文句があるならば、自分が思う漫才で「M-1」に出て優勝すればいい。
王者としての説得力。そして、正論のど真ん中を貫く話でした。そして、発信の場を持っている芸人さんからはほぼ同じような声が出されています。
ものすごくざっくり綴ると、もともと、着物を着て楽器を持ってやるのが基本だったものを「横山エンタツ・花菱アチャコ」のお二人がスーツ姿でしゃべるだけというスタイルを打ち出した。そこも含め、漫才は進化の歴史です。
いかに、先人がやっていなかったことを打ち出して新しい笑いを作るのか。もっと言えば、同じしゃべくり漫才に見えても、それぞれの立ち位置、一人称の使い方、ツッコミのワード、ボケとツッコミの転換など、新たな発明がいくつも盛り込まれてきました。
そして、当たり前のことですが、今一度綴っておきます。
今回の「M-1」を見た方々がいろいろな感想を持つのは自由です。何が面白くて、何が面白くないのか。それを何かに縛られることなんて、あっていいはずがありません。
さらに、見方ややり方を制限するほど、漫才は狭量であろうはずも、脆弱であろうはずもありません。
漫才をやる側にも、見る側にも、ルールなどない。それなのに、かくあるべきという“論争”だけがぼうふらのようにいきなり湧いてきた。
“論争”と言われるものが生まれてきたキモの部分。それはSNSです。
誰もが自分の意見を広く届けられる時代になった。この功罪は、僕などが首を突っ込むのがおこがましいばかりなほど、あらゆるところで議論がなされています。
ただ、厳然たる事実として、王貞治さんの「いいホームランでしたね」と、バットを握ったことがないギャルの「いいホームランでしたね」の重みは違います。それは違って当然だし、これを同じというのは不平等です。
もちろん「野球をやったことがないギャルでも、思わずそう感じるくらい素晴らしいホームランだった」という意義はその言葉にあります。
しかし、その言葉は王貞治さんと同じ“識者の意見”の棚に並べるものではないし、並ぶとややこしくもなります。並べるなら“街頭インタビュー”の棚に陳列しておかないと、正確ではありません。
SNSの出現、拡大によって、この“棚”の整理がしっちゃかめっちゃかになっています。
ごっちゃになっているからこそ、メディアでも、そこが並列ぽく扱われたりもする。それがさらに陳列をごちゃごちゃにする。
今回は「M-1」という非常にポップな事象が“棚ごちゃごちゃ問題”と合わさった形になりました。
だからこそ「漫才は自由、見る側も自由」という至極真っ当な結論をもって一件落着感が出てもいます。ただ、実はこの話の根っこは深く、決して笑ってられるものではないと考えています。