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【戦国こぼれ話】土佐藩祖・山内一豊を「内助の功」で支えた妻の千代とはどんな女性?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
山内一豊の大出世の背景には、妻・千代の姿があった。(写真:イメージマート)

 明日12月31日は、山内一豊の妻・千代が亡くなった日である(旧暦の元和3年〔1617〕12月4日)。夫を内助の功で支えた千代とは、いったいどんな女性だったのだろうか。

■千代の前半生

 弘治3年(1557)、千代は近江国(あるいは美濃国)で父を若宮友興、母を石川四郎娘として誕生した。「千代」あるいは「まつ」と呼ばれた。

 父は、近江国の大名・浅井氏の家臣であったという。最近では美濃国の郡上八幡城主・遠藤盛数の娘であるとも指摘されているが、定かではない。

 天正元年(1573三)、主家である浅井氏の滅亡とともに若宮家の家運も傾いた。父が討ち死にしたあと、千代は母とともに各地を転々としたのである。

 そのような厳しい時代を経て、千代は美濃国の不破重純の養女となり、山内一豊の母・法秀院に侍女として仕えたといわれている。

 その後、千代は一豊と結婚したのであるが、その理由は一豊の母にその働き振りを認められたからであると伝わっている。

■一豊との結婚と「内助の功」

 2人が結婚したのは、元亀年間から天正元年(1573)頃と指摘されている。2人は一人娘に恵まれるが、天正13年(1585)の江北地震で夭折するなど、不遇を囲った時期もあった。

 捨て子侶(湘南和尚)をわざわざ養育して、僧とした理由は、子に恵まれなかったことと大きな

関係があると考えられる。

 ところで、千代について語るとき、必ず触れられるのが「内助の功」である。「内助の功」とは、妻が夫を陰から支えて成功させることを意味する

 千代は結婚する際、実家から黄金10枚を渡されていた。現在の貨幣価値に換算すると、200~300万円という大金であった。

 むろん、このお金は日常生活で贅沢をするためではなく、いざというとき(家の危機)に備えるためのものだった。

 あるとき、一豊は1匹の名馬に目を奪われた。武士としては名馬を手に入れ、戦場で活躍するのが出世の道だった。しかし、馬は高価なもので、それが名馬になると、とても手が届かなかった。

 これを知った千代は、黄金10枚で早速この名馬を買い求めた。

 織田信長が城下で馬揃えを行った際、この名馬が目に止まり、一豊の心がけが褒められ、出世の糸口になった逸話として有名な話である。

■千代の活躍

 千代は、長浜城から大坂へと居所を移した。大坂へ移ったのは、事実上の豊臣方の人質としてである。

 慶長5年(1600)、豊臣方と徳川方に一触即発の事態が迫っていた。関ヶ原合戦である。

 このとき、夫の一豊は徳川家康に従い、上杉景勝の本拠である会津に出陣中だった。

 ときを同じくして、大坂にいた千代は石田三成が挙兵を計画していることを知り、それをすぐさま夫に知らせた。

 その手紙の中で、千代は万が一人質になれば自決する覚悟であると記し、家康に忠節を尽くすように書き送っている。

 妻子が大坂にいるため、家康への去就を迷う諸将もいたが、千代の力強い手紙によって、こぞって東軍へ味方したという。

 この功もあって、関ヶ原合戦では徳川家康の東軍が勝利を収め、夫の一豊は土佐国に20万石を与えられた。むろん、その背景には、千代の大きな功績があったといえよう。

■まとめ

 千代が亡くなったのは元和3年(1617)のことである。享年61。その功績は山内家のみならず、世の人々に後世まで伝えられたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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