投資の技術よりも消費の感性を磨け
個人投資は、投資収益による豊かな消費を目的とし、その豊かな消費が経済成長に寄与して投資収益を生む、この好循環の実現が経済政策の課題です。また、投資は、消費生活を支える製品やサービスの提供企業への関心のもとでなされるとき、心理的動揺に左右されることない長期的なものになり得るのです。
人のまわり持ち
井原西鶴の「武家義理物語」に、「我物ゆえに裸川」という話があります。鎌倉時代の武士、青砥藤綱は、ある秋の夜、鎌倉の滑川を渡った際に、十銭ばかりの小銭を川中に落としたので、人足を集めて三貫文を与えて探させたところ、一人が発見したのですが、それは嘘で、自分の手持ちの小銭を差し出していたのです。藤綱は、この偽計を知り、その男に厳重に監視を付けて、丸裸にして探させ続けて、落とした小銭を見つけ出すという内容です。
実は、思い掛けない利得に喜んだ人足達が開いた酒宴で、男が自分の悧巧さを自慢したから偽計が露見したのであって、「これ、おのれが口ゆえ、非道をあらわしける」とあるように、西鶴の意図は、口は災いの元という通俗的教訓にあるわけです。しかし、今日からみて興味深いのは、落とした小銭を回収するに要した莫大な費用について、人々は、「一文惜しみの百しらず」といって笑ったのに対して、藤綱は、「これをそのまま捨置かば、国土の重宝朽ちなんこと、ほいなし。三貫文は、世にとどまりて、人のまわり持ち」と述べていることです。
無駄の経済効果
この藤綱の理論は一種の財政積極策であって、酒宴を通じて消費経済に投下された三貫文は、間違いなく、景気浮揚効果をもたらしたはずです。実際、公共工事の相当程度は必ずしも必要性がはっきりしていなくて、直接的な効果や意味とは別に、投下された財政資金は、藤綱の投じた三貫文のように、世にとどまって、人々の間にまわり持って、経済の拡大的再生産につながることが想定されているのです。
いわば無駄の経済効果ですが、公共工事に投じられた資金や藤綱の三貫文は、直接的には無駄にみえて、人のまわり持ちになるなかで、間接的には何らかの社会的価値を創造するのですから、純然たる無駄ではなく、単に効率性や関係者間の利害得失の公平公正性が問題になり得るのみです。
例えば、藤綱が三貫文を投じるとき、公人の立場で政策として行うのならば、より経済効果の大きく、国民の福利の増大に公正公平に寄与する方法を検討すべきであり、私人の立場で道楽として行うのならば、そのときの気分や好みに適うことなど、自分に最も都合のいい効果が得られることを考慮すべきなのです。
しかし、複雑を極めた経済活動の連鎖のなかで、投じられた資金が人々の間をまわり持っていく経路を追跡することは困難で、ましてや事前に予測することは不可能に近いのですから、政府の財政支出の経済効果については、様々な視点から事前の検討と事後の検証がなされるとしても、要は、政治責任の問題に帰着するほかなく、このことは、藤綱の三貫文のように、個人の道楽が純然たる自己責任の問題であるのと同じです。
投資と消費の境目
財政支出は、経済効果を生むために資金を投じることが目的ですから、投資でも消費でもいいのですが、産業活動と生活のための社会基盤の整備が十分でない段階においては、その建設のための投資として実行することは、需要創造と供給能力拡大が循環的に働いて大きな経済効果を生むために、極めて効率的であるわけです。しかし、必要な基盤の整備が進めば、必要性の低い施設の建設が横行しやすいのみならず、施設の老朽化に伴う維持費が増大する弊害が大きくなりますから、投資から消費への転換が不可避になります。
例えば、公営住宅を供給することは典型的な公共投資ですが、住宅不足が解消し、短期間に大量に建設された住宅の老朽化が一斉に進むとき、その再建設として公共投資を継続することは不適当で、用地の売却や貸与を行って、民間資本による再開発を促すと同時に、低所得者層に対する住宅政策としては、家賃補助という単年度で消費される予算措置を講じることが望ましくなるわけです。
非合理な個人消費
公共投資による社会基盤の整備といえば、国民全体の利益として説明しやすいでしょうが、政策的な消費支出となれば、国民の多様性を考えるとき、高度な政治問題にならざるを得ないでしょう。実際、藤綱の三貫文のような支出は、経済政策としての有効性が合理的に推計されるにしても、その経済合理性だけでは政策決定し得ないと思われます。故に、そこに民間資本の役割があるのです。
経済の起点は個人の消費行動にあるわけですが、それは個人の感性的な気分や好みに基づくもので、そこに合理性を求めることはできず、経済の合理的説明は、個人の非合理な行動の集積として、事後的に、全体において可能であるにすぎません。この基本構図のなかで、政府の消費行動は、全体に好影響を及ぼすものとして、その効果を事前に合理的に説明できなければならないが故に困難であるのに対して、民間企業の活動は、事後的な結果責任の前提のもとで、事前の説明責任による拘束を受けないが故に、個人の多様な感性に大胆に挑戦できるのです。
個人の消費と投資
個人が株式投資をし、ある企業の既発の株式を取得するとき、個人が投じた資金は、直接的には当該企業に一円も入るわけではなく、株式の売り手に移転し、その売り手の消費行動や別の投資活動を通じて、経済活動の複雑な連鎖を経巡って、その極めて微小な一部が間接的に当該企業にまで至るにすぎないのですから、むしろ、この個人投資家にとって、当該企業との微小な経済的関係としては、自分自身の日常の消費活動のほうが重要なのです。
要は、株式投資とは、大きな経済活動のなかに投ぜられた資金が形を変えながら付加価値を生んでいく過程に参画することで、投資対象の銘柄を選択することは、その参画の経路を工夫することなのですが、どれが一番有利な銘柄かを知ることは不可能なのですから、ならば、いっそのこと、自分自身の消費生活との関連において、密着性が高いもの、興味を引くもの、気に入るもの、理解しやすいものを選ぶべきでしょう。少なくとも、そうすれば、投資先企業に対する関心も理解も深いものになり、投資成果に対する納得性も高くなります。
そして、株主優待制度とは、そうした主旨のものです。個人の株式投資においては、自分が支持している製品やサービスを提供する企業が投資対象として選好され、故に、株主優待が大きな魅力になっているのではないでしょうか。株主優待は、株主として企業に貢献したことに対し、消費者としての株主に報いるものですから、株主と消費者との共通利益を前提にしていて、逆に、企業活動が株主と消費者との共通価値の創造になるとき、最も企業価値が高くなることをもって、理想としているはずです。
投資と消費の好循環
投資のための投資はゲームですが、金融庁が個人投資を資産形成と呼び、資産形成の目的として国民の経済厚生の増大を掲げているように、個人にとって、投資の本来の目的はゲームではなく、資産を増殖させることによって消費可能額を増加させ、より豊かな消費を実現することです。そして、金融庁の最終的な行政目的は、豊かな消費を通じて経済を持続的に成長させ、それが更なる資産の増殖につながるという好循環を実現することなのです。
こうして、経済全体においては、投資は豊かな消費を前提とし、その豊かな消費が投資の前提となる経済成長を実現する、この相互規定関係のうえに経済政策があり、個人の生活においては、投資が豊かな消費を目的としてなされるとき、消費生活の延長線上にある企業への関心が生まれ、その関心のもとで企業の成長があり、その結果としての投資収益がある、この相互規定関係のうえに心理的動揺に左右されない長期投資があるわけです。
投機、あるいはゲームとしての投資も、消費と考えればいいのです。投機というゲームで消費しようが、資産形成の成果をゲームで消費しようが、経済全体に与える影響も、本人が得る満足も、同じようなものでしょう。もともと消費と投資は表裏の関係にあるのですから、両者を峻別できるわけではなく、個人の好みや趣味に応じた生活のなかで、両者間に親密で生産的な関係を構築することが重要なわけですから、投機は、家計の均衡を破らない限り、精神生活上の嗜みであり得るのです。