厚生年金基金は「フィデューシャリー宣言」で蘇る
厚生年金基金といえば、かつては、企業年金の代表的な器でしたが、現在では、事実上、同一業界の多数の事業主で作る総合型を残すのみで、それすら、間もなく、大多数は、解散か、確定給付企業年金基金への改組によって、消滅してしまうのです。総合型の確定給付企業年金基金になっても、必ずしも存立基盤が堅牢でないなか、「フィデューシャリー宣言」を公表することは、組織強化の切り札にならないでしょうか。
厚生年金基金廃止反対運動
2012年9月28日、民主党政権末期の混乱期に乗じて、厚生労働省は、突如として、厚生年金基金の廃止を打ち出します。以来、私は、廃止反対の言論を積極的に展開し、徹底的に厚生労働省を批判したのですが、結局は、原則廃止の方向を変えることはできませんでした。
私の厚生年金基金とのかかわりは、1990年の「厚生年金保険法」の改正により、厚生年金基金の運用方法の拡大がなされたときに遡ります。それから長期にわたり深い関係をもってきたものとして、厚生年金基金の集まりで檄を飛ばしたり、永田町に陳情したり、熱心に廃止反対の活動をしたことは、いい思い出です。
そして、ちょうど一年前、2014年9月4日に、「さようなら、厚生年金基金」という論考を書き、そこで、厚生労働省側に理のないことを論証し、問題を総括して、締めくくったのですが、そのときには、一週間後の9月11日に、金融庁が、「金融モニタリング基本方針」を公表し、そこで、フィデューシャリー・デューティーを導入しようとは、思いもよりませんでした。
フィデューシャリー・デューティー
実は、1990年の「厚生年金保険法」の改正の裏にも、理念としては、フィデューシャリー・デューティーがあったのです。
1974年、米国において、有名な「エリサ法」が制定され、そこで、年金基金の資産運用について、厳格なフィデューシャリー・デューティーが導入されたことは、米国の資産運用業界にとっては、歴史を画するものとなり、その後の急速な発展の基礎となったのです。
1989年、バブルの頂点において、私は、「エリサ法」からの類推により、厚生年金基金の運用拡大が潜在的にもつ可能性として、フィデューシャリー・デューティー的な概念の導入が日本の資産運用業界を大きく発展させるものだと信じました。そこで、1990年1月に、年金の資産運用に関する新しい事業を立ち上げたのですが、それが、HCアセットマネジメントの創業につながっていくのです。
厚生年金基金とフィデューシャリー・デューティー、私の人生に決定的な影響を与えたものは、長い歳月を経て、全く思いもしなかった形で、再度、結びついたわけです。
金融庁の意図
金融庁が、敢えて、英米法のフィデューシャリー・デューティーを導入したからには、当然に、「エリサ法」のもとでの資産運用業界の発展の構図が意識されているのです。
フィデューシャリー・デューティーというのは、いうなれば、履行強制力をもつ忠実義務です。米国では、これを、年金基金の管理者と、その資産を預かる運用会社に、厳格に課したことにより、資産運用のあり方を抜本的に変革することになりました。
つまり、一方で、年金基金は、フィデューシャリー・デューティーのもと、厳格な選別手続きにより、最善の運用会社を採用する義務を負い、他方で、運用会社は、人間関係や他の取引関係によらず、専らに運用能力のみによって、年金基金と接触しなくてはならなくなった以上、そこでは、当然のごとく、真の運用能力による健全なる競争原理が強く働き、業者間の知的な切磋琢磨が生じたことから、資産運用業界は、質的にも、量的にも、目覚ましく発展することになったのです。
1990年の「厚生年金保険法」改正以前は、運用会社は、信託銀行と生命保険会社に限定されており、厚生年金基金は、運用能力とは、ほとんど無関係に、母体企業との関係や人的関係等によって、運用会社を採用していたのです。法律改正は、この事態に対する改革であったわけですから、当時の厚生省が理想として目指していた方向は、「エリサ法」的なものとして、明らかだったのです。
しかし、私の期待を大きく裏切って、改革路線は、すぐに頓挫します。現在でも、厚生年金基金から改組された確定給付企業年金も含めて、年金基金の運用会社の選択においては、真の運用能力による健全なる競争とは、ほど遠い状況のなかで、旧態依然たる母体企業との関係や人的関係等による選択が横行しているのです。
これでは、真の資産運用業界の健全な発展は見込めない、そのような危機感のなかで、金融庁は、フィデューシャリー・デューティーの導入に踏み切るのです。大英断です。業界関係者には、これを規制の強化として否定的にとらえる向きがあるのですが、大きな誤解であり、不見識な心得違いです。金融庁は、業界の長期的な利益のために、その健全な発展のために、基礎を築こうとしているだけなのです。
実定法を超える社会規範
ところで、監督官庁としては、運用会社のフィデューシャリー・デューティーは金融庁の所管ですが、年金基金のフィデューシャリー・デューティーは厚生労働省の所管です。
表面的には、確かにそうですが、そもそも、フィデューシャリー・デューティーは、英米法のものですから、それを日本に適用するときは、実定法上の規範としてではなく、実定法を超える社会規範として、機能するものです。故に、監督官庁の違いを超えて、厚生年金基金や確定給付企業年金にも、適用し得るということです
要は、フィデューシャリー・デューティーは、規制によらずに、運用会社、年金基金をもつ企業、確定給付企業年金、厚生年金基金、あるいは公的年金が、自己自身に課された責務の厳格な履行について、自主自律の問題として、対応すべきものなのです。その具体的な方法が、「フィデューシャリー宣言」の公表です。
「フィデューシャリー宣言」は、フィデューシャリー・デューティーの厳格な履行を、監督官庁に対してではなく、運用会社ならば、顧客に対して、年金基金や企業ならば、制度の加入員と受給者に対して、要は、広く社会に対して、確約することで、履行強制力を発効せしめるものです。もう既に、HCアセットマネジメントをはじめ、一部の投資運用業者が公表していますが、このことは、実例をみれば、明らかです。
「フィデューシャリー宣言」
そこで、表題の厚生年金基金の「フィデューシャリー宣言」になるのですが、もちろん、対象になるのは、総合型厚生年金基金です。
年金基金にとって、加入員と受給者の受給権の保護は、存在意義そのものです。フィデューシャリー・デューティーは、いうまでもなく、加入員と受給者に対する義務として、受給権の絶対の保護に、その基礎をおいているのです。
しかし、日本では、法律が十分に機能せず、監督官庁の厚生労働省すら、受給権の侵害を厳格に阻止しようとする姿勢を欠いています。ここに、私の厚生年金基金廃止反対運動の強い動機があったのです。廃止は、どう考えても、受給権の侵害につながるからです。
現実には、不幸なことに、厚生労働省は、厚生年金基金の社会的信用を完全に失墜させてしまいました。こうなれば、厚生年金基金自身が、「フィデューシャリー宣言」を行うことで、自らの力によって、信用回復するしかないでしょう。それができなければ、確定給付企業年金基金に改組されたとしても、将来の存立の基盤は、しっかりとしたものになりません。
トラストとしての再構成
ところで、総合型厚生年金基金の場合、現実問題としては、加入員と受給者に対する責任よりも、事業主の理解が存立の条件になっている以上、事業主に対する責任のほうが重要なのではないか、当然に、そのような疑問が生じます。これは、極めて、重要な論点です。まず、英米法におけるフィデューシャリー・デューティーの原点を考えてみましょう。
フィデューシャリー・デューティーが発生するには、前提として、英語のトラストの成立が必要です。英語のトラストは、日本語の信託の先祖ですが、法体系が違う日本に接受されたときに、トラストと信託とは、少し違うものになっています。ここに、金融庁が、敢えて、フィデューシャリー・デューティーという英語を採用した背景があります。信託よりも、原点のトラストに引き付けた理解が必要なのです。
トラストは、信託の委託者に該当するセトラー、受託者に該当するトラスティー、受益者に該当するベネフィシャリーで構成されますが、フィデューシャリー・デューティーは、専らにトラスティーのベネフィシャリーに対する責任です。トラストが一旦成立すれば、もはや、セトラーは、当事者としての一切の権利がなく、義務だけを負うものになります。ここは、日本の信託とは、大きく異なります。
さて、総合型厚生年金基金に、あるいは、それが改組された確定給付企業年金基金に、フィデューシャリー・デューティーを適用するということは、それをトラストとして再構成することです。このとき、セトラーは事業主、トラスティーは年金基金の理事、ベネフィシャリーは加入員と受給者になります。
そうしますと、フィデューシャリー・デューティーのもとでは、年金基金の理事は、専らに加入員と受給者に責任を負うものとして、事業主の一切の利益を考慮してはならないことになります。これは、事業主の力の優越を考えたとき、専らに加入員と受給者の利益を守ることこそが、年金基金の存在意義であるとする当然の理解に立脚しているのです。
事業主の利益
では、事業主の利益は、どこにあるのでしょうか。事業主の利益抜きに、年金基金は、存立し得るのでしょうか。
確かに、表面的には、事業主は、義務を負うだけで、権利がないように構成されています。しかし、事業主の利益がなければ、さすがに、英米法においても、企業年金は成立しません。事業主は、従業員に対して、年金給付を確約することで、また、その確約の履行を、第三者である年金基金の理事に委任することで、従業員からの信頼を獲得するわけです。その信頼こそが、事業主の利益です。
年金給付は、従業員に対する事業主からのメッセージです。メッセージの主旨は、事業主の従業員に対するコミットメントを伝えることです。そのコミットメントによって得られるものは、従業員の企業に対するコミットメントです。そこに労働生産性の向上を認めるからこそ、事業主の利益になるのです。この考え方は、米国の企業年金制度の根底を支えている哲学です。
年金基金は、フィデューシャリー・デューティーの徹底によって、事業主のコミットメントに厚い信用を付与するのです。その分、従業員の企業に対するコミットメントも厚くなる、そうした好循環の実現は、例えば、上場企業についていえば、「コーポレートガバナンス・コード」第二章の「株主以外のステークホルダーとの適切な協働」の主旨そのものです。
また、総合型厚生年金基金の場合は、そもそもの設立の動機において、優秀な人材確保という業界共通利益が根底にあります。制度の仕組み上、掛金負担には、業界全体での相互扶助原理が働いています。それは、いうまでもなく、業界共通利益を前提にしたことです。ここを強調することは、総合型厚生年金基金の組織基盤の確立のために、極めて重要なのです。
成果に応じた報酬
最後に、フィデューシャリー・デューティーの重要な要素に、合理的報酬の考え方があります。これは、基金の理事の報酬、および、それに付属する事務局の運営経費にかかわることです。不合理な経費支出は、事務局自身または第三者の利益のためとみなされるので、経費の適正性は、常に重要なのです。
いうまでもなく、安ければいいということではなく、合理的であることが求められているのです。したがって、理事や事務局に勤務する人の利益として、付加価値の高い仕事をすることで、所得が増えていくという合理性が重要なわけです。そこに、理事と事務局のモラルの維持と働き甲斐がかかっています。