野村證券よ、利益相反の不存在を証明してみせよ
野村ホールディングス傘下の資産運用関連事業について、そこに利益相反の事実があることを、積極的に証明することはできないでしょう。しかし、だからといって、利益相反の事実がないことも、証明できません。なぜなら、利益相反の可能性を推認させ得る事例は、事実として、存在するからです。ただし、可能性は可能性にすぎないわけで、要は、可能性を否定できればいいのですが、さて、野村に、それができるのか。
野村アセットマネジメントの非独立性
野村の資産運用関連事業の中核を担うのは、野村アセットマネジメントですが、その現在の社長は、同時に、野村ホールディングスの執行役を兼務しています。前任の社長は、野村證券代表執行役兼副社長に転出し、同時に、野村ホールディングスの執行役を兼務しています。現任者も前任者も、もちろんのこと、もともと野村證券の人です。
さて、このような人事は、極めて明瞭に、野村アセットマネジメントが野村ホールディングスの事業全体のなかに固く組み込まれていることを示すものですが、経営の完全な独立性が不可欠な投資運用業者として、このようなことでいいのでしょうか。
完全な独立性が不可欠なのは、投資運用業と、野村の他の事業との間に、利益相反の可能性が起きないようにするためです。特に問題になっているのは、投資信託の販売を行う野村證券を中核とした野村ホールディングスの全体利益と、投資運用業者である野村アセットマネジメントが運用する投資信託の受益者の利益との間の相反関係です。
いうまでもなく、野村アセットマネジメントは、専らに、投資家、即ち、投資信託の受益者の利益のために、商品企画をし、投資を遂行し、事務管理の適正を期さなければならないのであって、そこでは、販売会社としての野村證券の利益や、野村ホールディングスの全体利益のためにする要素は、考慮されてはならない、即ち、投資家の利益と、野村ホールディングスの利益との間に、相反の可能性があってはならないのです。
野村アセットマネジメントの独立性とは、この利益相反の可能性が完全に排除された状態をいうのであって、故に、野村アセットマネジメントの独立性は、投資運用業の本質として、必然的に求められるのです。なお、ここでは、野村アセットマネジメントが野村ホールディングスの完全子会社であることは、本質的な問題ではありません。野村アセットマネジメントの経営が、投資運用業の本質を貫徹できるように、野村ホールディングスにおいて、完全に独立になされていればいいということです。
独立性の要件
では、独立性を定める要件は何か。それは、経営の独立性であり、第一に、人事交流の絶縁であり、第二に、営業協力における絶縁です。
人事交流の絶縁ということは、例えば、野村證券の幹部として、営業部門を所管していて、資産運用のプロフェッショナルとしての経験の全くない人が、突然、野村アセットマネジメントの幹部になること、まさに、典型的な「天下り」ですけれども、そのようなことは、あり得ないということです。
また、野村アセットマネジメントの社長が、野村ホールディングスの執行役を兼職するというのも、いかがなものでしょうか。そもそも、このような人事は、野村ホールディングスにおける野村アセットマネジメントの位置づけとして、野村證券の営業政策に適った商品を生産する従属的な工場であるといわれても、仕方ないものではないでしょうか。
では、営業協力の絶縁というのは、どういうことか。最初に、金融庁の考え方を確認しておきましょう。金融庁は、利益相反の排除を、資産運用に携わるものに課せられた責務としていて、それを、英米法の言葉を借用して、フィデューシャリー・デューティーと呼んでいます。
そして、金融庁は、はっきりと、「商品開発、販売、運用、資産管理それぞれに携わる金融機関がその役割・責任(フィデューシャリー・デューティー)を実際に果たすことが求められる」と述べているのです。
つまり、投資信託についていえば、野村證券は販売を行うものとして、野村アセットマネジメントは商品開発と運用を行うものとして、それぞれが、フィデューシャリー・デューティーを、努力目標や精神規定としてではなくて、実際に、果たすことが求められているのです。
故に、野村證券は、野村アセットマネジメントの利益のために、野村アセットマネジメントの商品を販売することはできず、野村アセットマネジメントは、野村證券の利益のために、商品開発を行うことはできないということです。ならば、両者間に、営業協力関係は、成り立ち得ないでしょう。
野村證券は、専らに、顧客の利益のために、取り扱う投資信託を選択しなければならない以上、野村アセットマネジメントの商品を優先的に取り扱うことはできず、野村アセットマネジメントは、専らに、顧客の利益のために、投資信託の開発と運用を行わなければならない以上、野村證券を優先的な販売会社として、その利益のために、野村證券の営業政策に従った商品開発をすることはできないのです。
もしも、野村證券と野村アセットマネジメントとが、密接なる営業協力関係にあるならば、それは、専らに、野村ホールディングスの営業収益の極大化を目指すために、販売手数料や運用報酬の外部流出を避けているものとみなされても仕方ないでしょう。
実際、金融庁も、「手数料や系列関係にとらわれることなく顧客のニーズや利益に真に適う金融商品・サービスが提供されているか、等について、検証を行っていく」として、この点については、厳しい姿勢で臨むことを明らかにしているのです。
野村アセットマネジメントを傘下にもつ意味
ならば、野村ホールディングスとして、野村アセットマネジメントを傘下にもつ実益がないのではないか、そうとも考えられます。
実際、フィデューシャリー・デューティーを徹底させた結果として、野村ホールディングスの経営者が、そのように判断するなら、野村アセットマネジメントを、売却等の方法で、完全に分離してしまえばいいでしょう。それも、現実味のある選択肢です。
しかしながら、野村アセットマネジメントが真の投資運用業者として高い価値を創出できるのであれば、野村ホールディングスにとっても、重要な事業になるはずです。なぜなら、投資運用業は、小さな自己資本しか使用しないので、高度な資本規制を受けている金融グループのなかの事業としては、ROE経営の視点からすれば、優等生になり得るのです。
ただし、野村アセットマネジメントが真の投資運用業者として成長できるためには、野村アセットマネジメントの経営は、野村ホールディングスのなかで完全に独立していなければなりません。投資運用業者にとって、フィデューシャリー・デューティーの徹底は、絶対に必要な要件だからです。
商業の王道としての好循環
これが、実は、金融庁のいう好循環の実現です。
フィデューシャリー・デューティーというのは、フィデューシャリーの責務のことですが、フィデューシャリーとは、他者の信認を得て業務を遂行するもののことであって、代表例は、医師であり、弁護士です。つまり、医師や弁護士には、顧客からの信認のもと、専らに顧客のために働かなくてはならないという強い規範が課せられるのですが、投資運用業者等にも、フィデューシャリーとして、全く同じ責務が課せられるということです。
ならば、自己の利益を追求するために職務を遂行する医師や弁護士など、あり得ないのと同じように、自己の利益の追求のために働く投資運用業等も、あり得ないのです。しかし、優れた医師や弁護士は、専らに顧客のために働くことで、顧客の支持を得て、結果的に、自己の所得の増大につながるように、投資運用業等も、専らに顧客のために働くことで、事業としての成功につながるわけです。
このことを、金融庁は、好循環といっていますが、要は、昔からプロフェッショナル業についていわれているマネー・フォロウズ(お金はついてくる)という原則と同じです。マネーを追うのではなくて、顧客の利益を追うことで、結局、マネーがついてくるのです。これは、広く、商業の王道といっていいでしょう。
なぜ野村なのか
もちろん、好循環が働いていないのは、野村だけではありません。ほとんどの金融グループにおいて、同様の問題があります。では、なぜ、ここでは、野村證券に着目するのか。
それは、いうまでもなく、野村の振る舞いは、利益相反の可能性を示すものとして、非常に目立つからです。また、一部の金融グループには、金融庁の政策を意識した動きも、多少は出てきているのですが、野村には、全く、その気配が見えないからです。
例えば、野村ホールディングス傘下には、もう一つ、野村ファンド・リサーチ・アンド・テクノロジーという投資運用業者があり、他社の運用するファンドへの投資を目的に、調査を行っているので、多くの投資運用業者から情報を収集しています。また、野村證券には、フィデューシャリー・サービス研究センターというものがあって、ここでは、企業年金等の投資家向けのコンサルティングを行っています。
ところが、これら各社は、野村ホールディングス傘下の企業として、野村アセットマネジメントを含めて、人事の一体性のもとにあるのです。これでは、いかにも、おかしい。フィデューシャリー・サービス研究センターなどという名称は、フィデューシャリーの責務を甚だ安っぽいものにしているようで、不快の念を禁じ得ません。
また、野村アセットマネジメントは、野村證券専用の投資信託として、「日本企業価値向上ファンド」を4月に設定し、それを、直ちに売り止めにしています。理由は、金額が大きくなると、運用しにくいというのです。これは、もととも、限定追加型で、短く募集期間を限ったもので、しかも、繰り上げ償還を前提にしたものです。いわば、実質的な単位型です。
ところが、5月になって、野村アセットマネジメントは、全く同じ戦略の「野村日本企業価値向上オープン」を、今度は、信託期間11年で、通常の追加型として、設定しています。もちろん、販売会社は、野村證券です。しかも、これは、いわゆる通貨選択型で、米ドルでも投資できるのです。
こうした、投資信託の商品企画は、顧客の視点に立ったとき、一体、どのような論理に基づくものなのでしょうか。短期で償還するほうは、金額が大きくなると運用できないといっておきながら、直ちに、別の償還期間の長い投資信託で、全く同じ運用戦略を実行する。金融庁は、投資信託を短期で乗り換えさせる行為には、販売手数料稼ぎの疑いがあるとして、厳しい姿勢で臨んでいるのですが、ならば、短期償還ならばいいというのでしょうか。
これでは、野村證券と野村アセットマネジメントとが一体となって、野村の利益のために、売りやすく、手数料収入が大きくなるように、商品開発を行っているとみられても仕方ないでしょう。
利益相反の不存在証明
まさに、こうして、野村では、利益相反の可能性が氾濫しているのです。しかし、だからといって、そこから、利益相反の事実を証明できるわけではありません。しかし、逆に、野村にとって、利益相反の不存在を証明できるわけでもありません。
しかし、フィデューシャリー・デューティーが完全に履行されていることを、積極的に証明するためには、実は、利益相反の不存在が証明できなければならないのです。その証明が、野村において、なされるなら、それでいい。野村よ、それができるというのか。
では、どうしたら、利益相反の不存在を証明できるのか。それは、利益相反の可能性がある行為自体を、一切、行わないことです。これは、簡単に、実践できます。その結果、野村の事業が成り立たないというのならば、恐らくは、事実として、野村の事業は、利益相反による不当な利得によって成り立っていたのです。ですから、野村としては、利益相反の可能性がある行為の断絶をできないとは、決して、いえないはずです。