川崎フロンターレ1998→2017 極私的トリロジー(3) 川崎をつくってきたもの
人のために泣く男
今季のフロンターレとは、ほとんど関係ない話になることを、最初にお詫びしておく。
川崎から離れること、北へ約300キロメートル。かつてフロンターレでプレーした選手が、静かにスパイクを脱いだ。
2000年に、クラブのホームタウンである川崎の桐光学園高校からフロンターレへと進んだ。プロ初年度に提携していたブラジルのグレミオへの留学は、高校の先輩である佐原秀樹さんと同じ足跡だった。帰国すると、チームはJ2に戻っていた。
レギュラーの地位をつかむまでに2年かかった。2003年はプレシーズンのキャンプで3部練習を課するなど徹底的に選手を鍛えた石崎信弘監督の下、J2で40試合に出場した。あと一歩で逃したJ1昇格を翌2004年に達成すると、自身はJ1のピッチに1試合だけ立ち、水色のユニフォームを脱いだ。
その後も、数度の戦力外通告を受けた。JFLでのプレーも経験した。そして最後は、故郷の福島でJ3を戦った。その選手の名は、渡辺匠という。
「自分の特徴が分からなくなってきました」。プロ17年目で福島ユナイテッドに加入した2016年、渡辺はそう話して自虐的に笑った。
高校時代は背番号10を背負って、中盤の底で攻守にわたって奮闘した。プロに入ってからは、センターバックでも起用された。普段はにこやかだが、ピッチに入ると「何だかスイッチが入っちゃうんですよね」と、自分にも周囲にも高い意識を厳しく求め続けた。今季の福島でキャプテンマークを託されたのも、当然だろう。
ピッチの上では強面になる男が、号泣していた。1年前のことだ。「あんな風に泣いたことは、本当にありませんでした。自分が引退するのかというくらい、恥ずかしいほどに泣いてしまいました」。2016年のホーム最終戦となる第29節、FC東京U-23との試合を0-2で落とすと、ピッチの端をうろつきながら、必死で涙をこらえようとしていた。
この試合が、プロ選手として最後に戦えるホームゲームとなる男たちがいた。渡辺と同い年の戸川健太、桐光学園でもチームメイトだった植村慶が、このシーズン限りでの引退を決めていたのだ。「勝って送り出したかった」。ただ、その思いで涙があふれた。
幸せなラストゲーム
その渡辺が、今年は送り出される側になった。今年の12月3日、J3最終節。1年前に仲間のために涙した同じホームスタジアムで、グルージャ盛岡との「みちのくダービー」に3-1と逆転勝利した。渡辺は、交代出場で最後の雄姿を披露した。試合後はファンの前で「年齢を重ねて涙もろくなってきたんですけど」とスピーチしたが、自分のための涙は流さなかった。
このシーズンからチームを率いた指揮官を引き合いに、「田坂(和昭)さんは1つ、ミスをしました。キャプテンの人選です。ここ、笑うところです(笑)」と、スタジアムからしんみりした空気を遠ざけようとした。代わりに、強い思いを言葉にして、ファンとメディアに残していった。
「Jリーガーになれると思って、(桐光学園入学のために)神奈川に行ったわけでもありませんでした。プロ入りは自分の想像以上の、限界を超えたこと、奇跡に近いことだなと思います。めぐりあった監督やチームメイトたちのおかげだと思いますね」
「(自身のラストゲームという思いより)勝って終わりたい、というその一点だけでした。プロに入ってからずっとその気持ちでやってきましたから」
「このチームは変わりました。プロ集団、戦う集団になる、そのベースが今年はできたと思います。来年以降、新しい選手を加え、もう1段、もう2段とステップアップしていく姿を見ていきたいと思います」
「(福島は震災に見舞われたが、)当時頑張ってくれた人たちがいるということを忘れずにやっていかなければいけないと思っていました。その経験をした選手も、チームを去る時が来ます。来年以降も、残る選手は魂を受け継ぎながら、このクラブは特別なんだと認識しながら、進んでいってほしいと思います」
こぼれ出る思いは、常に自分以外の誰かへの言葉になった。特徴が分からない選手になったなどという自己評価は正しくない。人のために泣けるほど、誰かのために頑張れる選手だった。
その熱いMFは、スタジアムを出ようとする時、こう話した。
「(川崎でともにプレーして、現在スカウトの伊藤)宏樹さんには、電話しました。今やビッグクラブですね。自分のラストゲームの前日に、フロンターレが優勝するなんて。こんな幸せな引退の仕方はないな、と思いましたよ」
こういう男たちが、今に至るまでのフロンターレを形づくってきた。