【京都市】『元和キリシタン殉教の地』や『南蛮寺』など京に見られるキリシタン関連の史跡
京都市内の史跡を巡ることで、都にも戦国時代などにキリシタン(キリスト教徒)が多く存在していたことに驚きました。その史跡も多く残されています。
キリシタンはまず布教のために、1549年薩摩に上陸。堺の港をより入洛したフランシスコ・ザビエル(1506~52)に始まると言われています。織田信長により、京都での布教活動を許され保護されました。
当初は京都のひとは、キリシタンに興味を示さず、また比叡山などの寺院も世俗化していたため、ザビエルは落胆して京を離れてしまいます。
その後を引き継いだ堺のキリシタン医師パウロの紹介により、「建仁寺永源庵」主により、「妙覚寺」にいた将軍「足利義輝」に会えたのを機にガスパル・ビレラが中心に布教を始めました。
京都の繁華街中心地に『南蛮寺』の碑があります。今では自転車置き場の一角となってますが、『南蛮寺』は、織田信長の時代にヤソ会によって建立。「珊太満利亜(さんたまりあ)上人の寺」と呼ばれていたそうです。寺とは書かれていますが礼拝堂でした。
1587年6月に九州征伐を終えた豊臣秀吉は、宣教師追放令を発しキリスト教弾圧を始め「南蛮寺」も取り壊され、信者のほとんどは貧しく「ダイウス町」と呼ばれた通りに住みました。1619年に将軍秀忠の命により、52名のキリシタンが火あぶりの刑で殉教されます。鴨川の六条から七条の間の「正面橋」近辺になります。
「正面橋」とは、昔「方広寺」「豊国神社」近辺にあった「京都の大仏」さんに向かって正面という意味があるとか…
(過去記事参照→ https://creators.yahoo.co.jp/kozushokairica/0100196131 )
その跡地に「元和キリシタン殉教の地」として、1994年7月に石碑が建立され、いまでも鴨川を眺めるように鞍馬石に抱かれたように存在しています。
キリシタン弾圧といえば、長崎などを思い浮かべますが、京都の殉教も3大殉教の一つだそうです。
「南蛮寺」
京都市中京区蛸薬師通室町西入北側
「キリシタン殉教の地」
京都市東山区鍵屋町