タモリ×星野源の『オールナイトニッポン』をより深く楽しむための“副読本”
ニッポン放送の『オールナイトニッポン』が放送を開始して55周年を迎えたことを記念し、歴代パーソナリティがリレー形式で行う55時間特番が2月17日の18時から19日の深夜1時にかけて放送されています。
2月18日の15時から登場したのは1976年から1983年まで担当していたタモリ。現在もパーソナリティを務める星野源をゲストに迎え『タモリのオールナイトニッポン』が復活しました。
思い出話など興味深いエピソードが連発しますが、拙著『タモリ学』で背景等を詳しく書いた部分と関連する箇所も多かったため、radikoのタイムフリー等で聴き返す際に、併せて読むと、より深く楽しめるのではないかと思いその一部をまとめてみました。
思想のない音楽会
まずタモリは、『タモリのオールナイトニッポン』が始まった頃のことを回想します。
『タモリ学』では番組が始まった経緯についてこのように記しています。
『タモリのオールナイトニッポン』が始まったのは、76年10月16日。芸能界デビューからわずか1年足らずである。
当時タモリは赤塚不二夫や山下洋輔らと呑み芸を磨いていたが、そうしたメンバーの中にマンガ家の高信太郎もいた。
高は75年7月から9月まで『オールナイトニッポン』火曜1部のパーソナリティを務めており、その担当ディレクター・岡崎正道に「面白い芸をする男がいる」とタモリの話をした。
すると岡崎は「そいつ早稲田(大学出身)じゃない?」と身を乗り出した。実は岡崎は早稲田のジャズ研出身。タモリの1年先輩だったのだ。
早速、岡崎はタモリに連絡をし、オーディションテープを録ることになった。
タモリは得意の「四カ国語麻雀」、「北京放送」、「中国人の田中角栄」などを披露したが、出来は散々だったという。
「まいったよ、あん時は。なんたって、オレの得意芸ってのは宴会芸だからさ、ウケてくれる人がまわりに居てくんないとやりにくいわけ」「ノリが悪い分だけ出来も悪くてさ。この間も聞いたけどホント恥ずかしかったよ」「あれはハッキリ言って、オレの芸能生活の汚点だね」(『タモリが本屋にやってきた』)
しかしそれから1年近くたち、アグネス・チャンがスペシャルパーソナリティを務める『オールナイトニッポン』に電話出演、彼女とデタラメの中国語で会話したことが大評判となる。
それを直接のきっかけとして、まだほとんどテレビにも出演していなかったにも関わらず、タモリはメインパーソナリティに抜擢されたのだ。
この番組からタモリの名が、若者を中心に一般に知れ渡り、人気を博していったといっても過言でない。タモリ自身も特別な番組と位置づけていた。
「(『オールナイトニッポン』は)大事にしてました。もうどんなにスケジュール忙しくてもとにかくやろうと」(『「笑い」の解体』)
『いいとも!』や『タモリ倶楽部』が始まった82年をピークにタモリのスケジュールは多忙を極め、ニッポン放送側からも休暇の打診があった。「いつ復帰してもいいからしばらく休め」と。
しかし、タモリは「いまんところ自分の顔みたいな番組はこれしかないから続けさせてくれ」と固辞。
「いいやすいですからね、あそこでは。やっぱり昼間っていうのはどんなこといっても、どっかで意識が、誤解されちゃいかんというのがフッとあって、つい他の表現になっちゃうでしょ。深夜放送だとまず若い人しか聴いてないと思うから、どんなことでもいえるんですよね」「あの番組で、なんか、放送における自分の乗り方、乗せ方というのが初めて分かったんですよ」(『「笑い」の解体』)
(※『タモリ学』より)
当時タモリは毒っけが強く、そうした部分も人気の要因のひとつでした。さだまさし・五木寛之・オフコースなど「日本の湿った文化風土」を痛烈に批判し、他にも名古屋人、映画評論家など各方面に毒づいていました。その標的の中には南こうせつや井上陽水らもいました。
一方で、小学生の頃に初めて聴いて魅了されたのが高田浩吉の「白鷺三味線」(作詞:西条八十,作曲:上原げんと)だったと番組でも語っています。そこから生まれたのが名物コーナー「思想のない音楽会」でした。
「(歌は)軽薄でいい」「非現実的な方がいい」(『今夜は最高!』)、そして「無思想で、明るく単純に楽しむのが、音楽なんだ」(『タモリが本屋にやってきた』)という思いが結実し“ニューミュージック撲滅”を目的として生まれたのが、『タモリのオールナイトニッポン』の中の「思想のない音楽会」というコーナーだった。
タイトルはもちろん『題名のない音楽会』(テレビ朝日)のパロディ。ニューミュージックとは対極にあるナンセンス・ソングを紹介していた。
その理想のひとつとされて紹介されたのが、高田浩吉が歌う「白鷺三味線」だった。
〽白鷺は 小首かしげて 水の中
わたしと おまえは
エー それそれ そじゃないか
アア チイチク パアチク 深い仲
「この思想のなさ。ノリ一発、という明るさ。これですよ、これ。歌っていうのは、こうでなきゃダメだよ」とタモリは絶賛した(『タモリが本屋にやってきた』)。
「思想のない音楽会」は『タモリのオールナイトニッポン』を代表する人気コーナーのひとつとなり、そこで紹介されたさいた・まんぞうの自主制作盤「なぜか埼玉」に問い合わせが殺到、ついにメジャーデビューを果たすという珍現象まで引き起こした。
そしてある時、井上陽水がスタジオにひょっこりやってきてこう言った。
「ボクの歌は、今まで思想がありすぎました。それに、暗い。これからは過去を絶ち切って、思想のない歌をうたいます」
「それからだよ、陽水さんの歌が変わったのは。明るくなったろ」とタモリは胸を張った(『タモリが本屋にやってきた』)。
(※『タモリ学』より)
意味がないことで称賛された「なぜか埼玉」だが、埼玉出身の星野は「すごい閉塞感があるんだけど、すっごい広くて、どこまで行っても埼玉な感じがする」と共感を覚えた話なども。
そして彼がたびたびラジオで流しているお気に入りのオマリーが歌う「六甲おろし」をかけ、“令和版「思想のない音楽会」”が開催されていました。
タモリの大挫折
星野が幼い頃からジャズを聴いていたという話から、タモリの音楽遍歴の話へ。
『タモリ学』ではこのときのことを「わかりやすさ」を優先するテレビへの疑問にからめて書きました。
「われわれがテレビの世界に憧れたのは、たとえば『11PM』で(大橋)巨泉さんがわけのわからないことを言っていたからなんです。僕らは高校とか中学だから、わからないわけです。その『わからないこと』に興味を持つんです。わからないことは必要以上に説明しなくてもいいんです。むしろ、わからない世界でテレビをやったほうがいい。『なんだろう』『大人になったらわかるかもしれない』と思って興味を持ってくる。わからないことに、人間はよく興味を持つんです。」(『ことばを磨く18の対話』)
00年に行われた加賀美幸子との対談で、タモリは昨今のテレビ番組が「わかりやすさ」に拘泥する傾向に疑問を呈している。
タモリがジャズにハマったのも、またその「わからなさ」からだった。
子供の頃、両親は福岡の下町で商売をやっており、そこで母親は仕事中にもジャズを流していた。父親は父親でフラメンコに夢中で、さらに姉はクラシックのピアノをやっており、タモリ自身も民族音楽などを聴いていたという。そして高校生の時、近所の後輩の家でアート・ブレイキーの一枚を聴いた。
「何がなんだかわかんない。こんなわけのわかんない音楽聞いたのははじめてで、とても癪にさわったんですね。俺にわからない音楽なんてないと思ってましたからね。それじゃあ根性入れて聞こうということになって」(『これでいいのだ 赤塚不二夫対談集』)
そしてジャズに傾倒していった。ちなみにタモリは84年に『いいとも!』でMJQとトランペットで共演、アート・ブレイキーの代表曲でもある『ナイト・イン・チュニジア』を演奏している。
タモリはジャズの魅力を「目の前で『音楽ができあがっていく』、その現場に居合わせられる」ことだと語っている。
「その場ででき上がったライブも、その場かぎりで、終わり。次のときにはまた違うって音楽はね、ジャズだけ」(ほぼ日刊イトイ新聞「初めてのJAZZ2プロローグ」)。
またタモリは『いいとも!』のいわゆる「放送終了後のトーク」を、ジャズのセッションになぞらえている。
『いいとも!』では生放送終了後、レギュラー出演者が30分強のフリートークを行い、その一部は『増刊号』で放送される。
最近ではあらかじめテーマを設けることが多いが、数年前までは完全な「即興」だった。
「本当にその場でしかできないものを見てるから、観客もノってくるんですよ。ようするに『現場に立ち会ってる』興奮なんです」「お笑いでもジャズでも、人となにかやるからにはやっぱり自分も変わりたいし、相手も変わってほしいなと思ってるんです。やっぱり、そこがいちばん、おもしろいところなんですよ。現場に立ち会ってるという、生な感じが」(同前)
(※『タモリ学』より
ジャズに傾倒したタモリは吹奏楽部に入り「なんとか前面に出たいという思いからトランペットを練習、「陰の工作」で先生に認めさせトランペット担当」(『タモリ学』収録「大タモリ年表」より)になります。
マイルス・デイヴィスが好きだったタモリが、先輩から「マイルスのトランペットは泣いてるだろう。お前のトランペットは笑ってるんだよ」と言われ、トランペット奏者から司会業に回され、そこからタモリの才能が開花したのは有名な話です。
「(挫折によって)『自分がいかに下らない人間か』ということを思い知ることで、スーッと楽にもなる」「確かに、それがわかると、一度はドドドーンって落ち込むけどね。すぐに立ち直って、明るくなっちゃうんだよ。『なんだ、俺はいままでこんなつまらんことにこだわってたのか』って。そして楽になると同時に、打たれ強くもなるんですよ」(『BIG tomorrow』1995年11月号)
そんな経緯を経て務めた司会業で、タモリはどんどん頭角を現していった。
「いつもは学年順に先輩からやるのが普通ですが、今日は顔のいい順に紹介します。まずは最初。司会の私──」などと言うのが当時の鉄板のギャグ。時には演奏よりタモリのトークのほうが長くなったという。先輩たちからは「お前の喋りの間に、演奏が入る」「オレたちはお前のツナギのために演奏しているんじゃないから、勘違いしないでくれ」と言われた。
「しゃべりの人生はその辺から始まりましたね」とタモリは述懐する。(『早稲田ウィークリー』800号)
(※『タモリ学』より)
タモリはそのマイルス・デイヴィスと対談をしたときのことを振り返ります。
この対談は1985年の『月刊プレイボーイ』10月号で行われたもの。『タモリ学』文庫版収録の「大タモリ年表」にもこう記録しました。
マイルスが大好きなタモリは極度に緊張。しかも対談中、マイルスはタモリの顔をほとんど見ず、ずっと手に持った紙に何かを描いていて、タモリは「変わりものだって聞いてたけど、確かに変わってんなあ」と思ったという。描いていたものは絵で、突然「おまえにやる」とプレゼントされる。そして対談の最後にタモリのトランペットを見たマイルスは「これはお前のか? お前も吹くのか?」と尋ね、「そう。これにサインをしてほしい」と言うと、「今日は良いインタビューだった。お前はとてもオレの音楽をよく聞いてくれてる」と言い、サインを書いたという。「それが今でも宝物なんだよ」。ちなみにタモリが他にサインをもらったのは吉永小百合、アイルトン・セナ、スティーヴィー・ワンダー、ダスティン・ホフマンなど。
(※『タモリ学』文庫版収録「大タモリ年表」より)
他にも若林正恭がmc.wakaとしてラップを担当した55周年ジングルの話や、タモリとRun-D.M.Cとのラップ共演の話、タモリの家でごちそうになった話など話題は多岐にわたり時間はあっという間にすぎていきました。
番組終盤、タモリは、星野源の「恋」の一節「一人を超えてゆけ」という歌詞がすごいと称賛します。
「一人称も二人称も三人称もないっていうことはすごいこと」と。そして星野がその歌詞について自己解説すると「ラブソングだと思って聴いていて、最後に『一人を超えてゆけ』が来た時に違うんだ、これはすごいなと思ったね。びっくりしたわ」と感心するタモリ。
※なお、番組は放送後1週間以内は「radiko」で聴くことができます。