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デビッド・ボウイに学ぶイノベーションと経済学

木村正人在英国際ジャーナリスト
常に変わり続けてきたデビッド・ボウイ(写真:Rex Features/アフロ)

イノベーションのジレンマ

英国のロックシンガー、デビッド・ボウイは10年ごとに自分のスタイルをイノベーションし続けた稀有な大スターです。メガヒットした歌やファッションのスタイルを脱ぎ捨てるのには大きなリスクを伴います。しかしボウイは常に自分を革新することをためらいませんでした。

企業経営の理論に「イノベーションのジレンマ」という言葉があります。現在の収穫を守ろうとするあまり、破壊的イノベーションを遠ざけ、結局、新興勢力に取って代わられるジレンマを言います。日本は高度成長という成功体験にとらわれ、ベルリンの壁が崩壊した後に加速したグローバル化やICT(情報通信技術)の流れについていけませんでした。

韓国や中国といった新興勢力に追い上げられたとき、日本は生産性の低い製造業から撤退して、生産性の高い新しい情報通信やサービス分野に軸足を移すべきでした。しかし、製造業の利益を守ろうとしてイノベーションを起こしたりビジネスモデルを転換したりするチャンスを失してしまいました。

ボウイがいかに変わってきたかを英BBC放送のサイトを参考に見ていきましょう。

1960年代

ボウイはこの頃、ポップスターを夢見て、サックスホーンを吹いていました。64年に「キング・ビーズとデービー・ジョーンズ」という名でデビューレコード「リザ・ジェーン」を出しています。66年にボウイに改名、ポップ・ソングやボードビル、サイケデリックをミックスしたデビューアルバムをリリースします。このアルバムに後年のボウイを見出すことはできません。

そして、米国のアポロ計画で世の中が宇宙に憧れていた1969年、ボウイの原点とも言えるセカンドアルバム「スペース・オディティ」がヒットします。「地上管制からトム少佐」という呼びかけで始まる歌詞は、広大な宇宙へと漂流してしまう自分の無力感をうまく表現して、急激な時代の変化と若者たちの気持ちをつかみます。

1970年代

72年、ボウイは5作目のアルバム「ジギー・スターダスト」を発表します。歌舞伎の隈取を彷彿させるような派手な化粧と衣装で、違う星からやって来たロックシンガー、ジギーをボウイが演じ、その興亡を歌にしました。「グラムロック」と呼ばれるスタイルが一世を風靡します。

そして米国で創作活動を行い、75年には白人のシンガーが黒人のソウルを歌うプラスチック・ソウルのアルバム「ヤング・アメリカン」をリリースします。パンクロックが英国中を席巻するとボウイは西ベルリンに移り、クラウト・ロック(西ドイツに登場した実験的バンドの音楽)を取り入れたベルリン3部作「ロウ」「ヒーローズ(英雄夢語り)」「ロジャー」で70年代を締めくくります。

1980年代

ボウイ人気がピークを迎えます。83年の「レッツ・ダンス」で新しい世代のファンのハートを鷲掴みにします。80年代に出した最初の3アルバムはいずれも英国のヒットチャートの1位になっています。それまではカルト的スターだったボウイはメインストリームのスーパースターとしての地位を確立します。しかし惜しげもなく、そのスタイルを捨て80年代後半には原点回帰してバンドを結成、ポストモダンのヘビーメタル「ティン・マシーン」を発表します。

1990年代

ボウイは93年のソロのアーティストに復帰します。96年にはインターネットでだけ発売するシングル「テリング・ライズ」をリリースします。インダストリアル・ロックとドラムンベースをミックスさせたデジタルサウンドの「アースリング」を97年に発表しています。

2000年代

00年のグラストンベリー・フェスティバルで高い評価を得て幸先の良いスタートを切ったボウイですが、04年のワールドツアーの途中に胸の痛みを訴えてから活動ペースは一気にダウンしてしまいます。

2010年代

13年、66歳の誕生日にニューシングル「ウェア・アー・ウィ・ナウ?(私たちは今どこにいる?)」を発表し、「リアリティ」以来10年ぶりとなるアルバム「ザ・ネクスト・デイ」をリリースします。亡くなる2日前の今月8日、ボウイは最後のアルバム「★(ブラックスター)」を発表し、「ここを見上げてごらん。僕は天国にいるよ」と歌って自らのアーティスト活動に幕を下ろしました。

カメレオンのようにボウイがスタイルをコロコロ変えることができた背景にドラッグの影響をにおわす心ない大衆紙の報道もあります。

ボウイ債

しかし、ボウイは1997年に、将来の著作権料やライブでの稼ぎを担保に債券を発行し、知的財産権の証券化の先駆けとなっています。ボウイは69~90年に発表した25のアルバムについて英国のレコード会社EMIとの間で米国での売り上げに対して25%以上の著作権料を受け取ることを保証されていました。

英紙フィナンシャル・タイムズによると、これを担保に「ボウイ債」(10年債)を発行し5500万ドルを調達、債券の購入者に年7.9%の利回りを約束しました。ボウイはインターネットの時代が到来し、音楽の流行り廃りが加速するとともに無料で聞けるようになり、昔の曲の価値はなくなると考えていたようです。

著作権の資産価値があるうちに債券を発行して、これからの音楽活動を展開する資金にしようというわけです。ボウイ自身、2002年の米紙ニューヨーク・タイムズのインタビューに「音楽に関してかつて我々が考えたことすべてに関する絶対的な変化がこの10年の間に起きるでしょう。それを止めることはできません」と語っています。

ボウイは、著作権は10年後にはなくなり、音楽は水や電気のようになると予想していたようです。トリプルAだったボウイ債の格付けは03年半ばに音楽業界の売り上げが7%落ちたことをきっかけにジャンク(投機的格付)扱いになってしまいます。

ボウイはいち早くインターネットで作品を発売するなど、常に時代の先を読んでいました。

先見の明に富むボウイは再発明と革新の必要性を知るイノベーションの天才だったのだと思います。英国は1980年代のサッチャー革命で製造業に見切りをつけ、金融を中心としたサービス業に大きく産業構造を転換しました。「イノベーションのジレンマ」に苦しむ日本はデビッド・ボウイから学ぶことが多いのではないでしょうか。

(おわり)

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

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