【日本酒の歴史】お寺でお酒が造られていた!中世の人々はどのようなお酒を飲んでいたのか
鎌倉の世にあって、商いがもりもり栄えたころ、酒というものもまた、米と並ぶ大切な商品として流通を始めました。
都は伏見あたりを中心に、酒を造っては売り出す酒屋が現れ、「造り酒屋」として賑わいを見せていたのです。
ただ、当時の仕込み桶は今のような大容量ではなく、ほんの二、三石の甕が土間にずらりと並んでいたといいます。
この甕で仕込む姿を見れば、かつての酒造りの素朴さがしのばれるのです。
が、酒屋の隆盛をよしとしない者もいました。
建長4年、鎌倉幕府は「沽酒の禁」なる命を発し、一軒につき一個の甕を残しことごとく破壊させたのです。
その数たるや三万七千にも上り、鎌倉の町は甕の破片で埋め尽くされたといいます。
このような禁制が出されるのも、酒に夢中になりがちな民衆の心持ちを抑えようとする武家社会の禁欲思想が背景にありました。
時は流れ、室町時代の頃。
なんと酒屋の数は洛中洛外に三百軒を超え、庶民の酒欲がさらに膨らんだことが窺えます。
京の都では、ただの酒造りでは飽き足らず、麹作りまでも手掛ける酒屋が現れ、麹屋との軋轢は武力衝突にまで発展しました。
ついには「麹屋」という職業そのものが消え去り、酒屋の一工程に組み込まれていったのであります。
また一方、寺で作られる「僧坊酒」もまた存在感を増していました。
菩提泉や山樽といった銘酒が生まれ、伝統的な酒造法は、奈良酒や天野酒などへと受け継がれることとなったのです。
木炭で濾し、火入れで雑菌を抑えるなど、技術は着々と進化し、酒造りの一流法として継承されていきました。
やがて京を飛び出し、他国で作られた「他所酒」なるものが市中に流入し始めました。
京都の酒屋たちはこれを「抜け酒」と呼び、安価な競争相手の登場に大いに危機感を抱いたのです。
彼らは幕府へ陳情を重ね、京の酒の独占を図ろうと躍起になったものの、これこそが後に「地酒」と称される新たな酒文化の萌芽であったのです。
こうして室町の酒屋たちは、都の経済を動かすほどの力を持ちながらも、他所からの新しい流れにさらされ、次なる時代への橋渡し役を担っていくのでした。
酒造りという営みが織りなす歴史の一滴一滴には、時代の風が染み込んでいるのです。
参考文献
坂口謹一郎(監修)(2000)『日本の酒の歴史』(復刻第1刷)研成社