20世紀初めに生まれた木村義雄14世名人は、やしゃご弟子・藤井聡太七段と比べても遜色ない早熟の天才
昨日2月21日は、木村義雄14世名人(1905年2月21日-1986年11月17日)の誕生日にあたります。
ほぼ百年後の2002年に生まれた藤井聡太七段(現在17歳)から見れば、木村14世名人(以下木村名人)は、師匠の師匠の師匠の師匠にあたります。木村名人から見れば、藤井七段は孫の孫、つまり玄孫(やしゃご)弟子ということになります。
2002年7月19日生まれの藤井現七段は、2016年10月1日、史上最年少の14歳2か月で四段となりました。現代の将棋界では四段から正式な棋士とみなされます。
木村名人の若い頃と現代とでは、将棋界の制度は大きく異なります。木村少年の時代には日本将棋連盟もなく、棋士の養成機関である奨励会もなく、昇段制度も異なりました。
将棋界では古来、五段から上が「高段者」とされました。
ですので、木村名人が四段だった頃と、現代の四段とでは、立場が異なります。木村義雄四段と藤井聡太四段の年齢についても、単純な比較はできません。
そうした前提の上で、木村名人が四段になった年齢を調べてみることにしましょう。
日本将棋連盟の棋士データベースを見ると「四段 1920年1月1日」とあります。
まずこの数字は、正確ではありません。「年」は合っていても「月日」のレベルでは適当です。この数字を元にして「木村14世名人は満14歳10か月で四段になった」とする記述を見かけたことがありますが、元データが正確ではないので、正しくありません。
「1月1日」という月日については「本当の記録がわからないので、とりあえずアバウトにそう表記しておきました」というぐらいの意味なのでしょう。(誤解を招く元なので、書かない方がまだいいと思われます)
藤井聡太七段の最年少記録が注目される現代の将棋界において、年齢の記録は日単位で計算されます。
棋界ウォッチャーが特に注視している(そして藤井七段自身は特にこだわりを持っていないと思われる)のは史上最年少でのタイトル挑戦(番勝負登場)記録です。これについては屋敷伸之四段(現九段)が1989年に作った記録を、藤井七段が現在進行中の棋聖戦で、わずかに何日か上回れるか、という話になっています。
もちろん昔も、年少記録はある程度は意識されました。将棋の才能は、年若くして現れる。これは昔も今も、そう変わらないことです。トップクラスで活躍する棋士は、ほとんどの場合、十代のうちに頭角を現しています。木村名人なども、その一人です。そしてどれだけ若くして強くなったのかは、昔も今も、将棋界では重要な指標です。
とはいえ、年齢を始めとする各種記録の扱いに関しては、現在の視点で見れば、かなりアバウトです。ともかくも、木村14世名人が四段になったのはいつなのか、筆者がアクセスできる範囲の資料で調べてみました。
木村名人の自伝『将棋一代』には次のように記されています。(かっこ内は引用者注記)
『将棋一代』は文字通り木村名人の一代記で、大変面白い読み物です。貧しい家庭で生まれ育った木村少年が、様々な困難を乗り越え、天下無双の棋士となっていく過程は、日本の正統的な立身出世の物語とも言えます。将棋を通じての経験と、深い教養に裏打ちされた教訓がそこかしこに散りばめられ、名言の宝庫でもあります。
ただし、正確な記録という点では、筆者が調べた範囲でも、あれれ、と思うところはあります。
上記引用はその一つです。大正8年の「暮のうちにいよいよ、四段昇進が決まった」というのは誤りで、大正8年暮はちょうど三段に昇段したばかりです。翌大正9年(1920年)に四段に、異例のスピードで昇段したのは間違いないものの、昇段した月が2月では、間隔が短すぎます。
本人名義の自伝でも、協力者、編集者の勘違い、チェックミスなどで記述が誤っているという例は多くあります。
さらに時系列でいえば、12世名人である小野五平(1831-1921)が亡くなったのは大正9年ではなく、大正10年です。
大正9年はまだ、木村義雄(三段→四段)の師匠である関根金次郎(1868-1946)は八段でした。
翌大正10年1月29日に小野名人が亡くなり、その後、周囲に推される形で、関根八段が名人位に襲位しました。
話は戻って、木村義雄がいつ四段に昇段したか。他の文献には次のように記されています。
掲載されている棋譜の段位表記、相手との手合割からも、上記記述の方が正確なものと思われます。新聞には次のような記事がありました。
木村三段は7月に指された村越為吉六段との対戦に勝って5人抜きを達成。その時点で四段昇段が決定。棋譜が新聞に掲載され、結果まで明らかにされた後、四段昇段も発表。以上が正確な時系列のようです。
というわけで、木村義雄の四段昇段は1920年の7月の何日か、ぐらいまでは確定できそうです。とするとだいたい、満年齢では15歳5か月ぐらいです。
繰り返しとなりますが、当時と現在とでは制度があまりに違うので、一概に比較はできません。それでも木村名人の昇段スピードは、後の大棋士や、現在の藤井聡太七段と比較して、ほとんど遜色のないものと言えるでしょう。
四段に昇段した翌年には、五段に昇段しています。当時五段は「高段者」であり、こちらの方が大きな節目だったようです。昇段した正確な日付は例によってわかりませんが、棋譜に記された段位から推測すると、満16歳(数え年で17歳)となった頃のことのようです。
木村義雄はその後、盤上でも盤外でも、多くの革命をもたらしました。
戦前にある程度まで昇段し、塚田正夫、升田幸三、大山康晴といった昭和の大棋士の四段昇段がいつなのかも、かなりアバウトにしか伝わっていません。本稿は長くなりましたので、そちらはまたいずれまとめたいと思います。