治療法開発にも期待 シミュレーション技術と患者一人ひとりに合わせた医療機器
「心臓のシミュレーション・モデルをつくることで、どういう治療プロセスが良いかを心臓外科医が手術前に検証して、より早い段階で理解を深められるようになります。診断技術が進展すれば、患者の治療後の経過だけでなく、患者の一連の体験そのものが向上するでしょう」
3Dソフトウェア世界的大手の仏ダッソー・システムズ社で『リビング・ハート・プロジェクト』エグゼグティブディレクターを務めるスティーブン・レヴァインはそう語った。同プロジェクトは、患者毎に個別化された心臓の3Dシミュレーション・モデルを作成することで、治療や診断に役立てようとする試みだ。
■忠実に再現した3Dモデル、治療法の開発や治療後の経過に期待
リビング・ハート・プロジェクトは、2014年にFDA(米食品医薬品局)と5年間の共同研究契約を締結、2015年5月には人間の心臓の形状と挙動を忠実に再現した3Dシミュレーション・モデルを商用化している。形状や細胞特性に変更を加えることで、医療関係者が先天的欠損症や心疾患について学習したり、実際の患者の体内へ新しい医療機器を挿入する前に、心臓機能へ与える影響を予測できる。
例えば、冠状動脈ステント(管腔内部から広げる医療機器)の挿入にあたり、心臓の反応を事細かに可視化しながら、最適な効果を得るために適したステントのタイプ、サイズ、挿入場所などの事前検証が可能だ。ダッソー・システムズ社で、リアリスティック・シミュレーション・アプリケーションを展開するSIMULIAブランドCEOのスコット・バーキーは次のように話す。
「物理学ベースのシミュレーションに対応した初めての心臓モデルを商用化できたことは、デジタル医療機器と心臓血管科学の大きな進歩であり、患者のQOL(生活の質)に直接影響を与えるものです。同プロジェクトは、シミュレーション技術が治療法そのものを変えうることを示しており、パーソナライズ医療を牽引する要因にしていきたい」
現在、リビング・ハート・プロジェクトにはFDA、MDIC(米医療機器イノベーションコンソーシアム)、心臓専門医、医療機器メーカー、病院など、45のメンバーが協力している。今後は心臓への薬の有効性を検証したり、心臓だけではない体の他の部位のシュミレーション・モデル化を予定する。来年には、脳、目、脊柱、足などへ順次取り組んでいく考えだ。
また、今の3Dモデルは健康な人間の標準的な心臓を再現したものだが、心臓病や心筋梗塞を起こした患者向けとなると、材料の特性そのものに配慮する必要がある。そこで、MRI、CT、ECG(心電図)など患者個々人のデータを活用し、より一人ひとりに合わせた医療機器の開発を推進していく計画だ。
「2018年までに、心臓モデルを実際の手術へ活用したいと思います。とりわけ、子どもの難しい症例に対して役立てたいです。病気の進行による影響は、健康な心臓のモデル上では中々再現できません。例えば、心臓の弁の一部が正常に動作せず、血が逆流してしまう心臓病の一種がありますが、そのような症例に特化した医療機器があっても、健康な心臓では中々テストできません。検証済の病気が進行した状態の心臓モデルをライブラリ管理する打開策もありますが、最終的にはパーソナル性を完全に再現する方法論を見つけ出したい」(スティーブン・レヴァイン)
■シミュレーション技術が生み出すインパクト
では、リビング・ハート・プロジェクトをーー、広く捉えればパーソナライズ・メディカル・デバイス(患者一人ひとりにあわせた医療機器)を医療現場に普及させていく上での課題はどこにあるのか。公的機関の認証、技術的課題、コストなどが考えられる中、スティーブン・レヴァインは次の点をあげた。
「医療現場へ広く導入するための主たる課題は、新技術を学ぶために必要な人的資源です。時間の経過とともに、システムは成熟し、より自動化され、安全なクラウド上で容易に利用可能になりますが、現時点においては専門家が使用する必要があります。今日、これらの専門家は医療機器会社や大学に多く、医療センターでは十分にいません」
リビング・ハート・プロジェクトは、医療機器コミュニティに向けた、機器設計から各種規制まで対応できる新しい開発ツールともいえる。元々、FDAの審査ではマスが使用者として想定されており、一個人毎には検証しない。だが、デバイスがその患者用に特注される場合、カスタムデバイスを製作するための『プロセス』全体がFDAによって認定されていなければならない。
そのため、臨床試験ベースのテストを超えて、人体と各種機器との関係性を評価する方法が生まれることは、できる限りコストを抑えた、質の高いケアを行う上で極めて有用だ。同プロジェクト・メンバーと共に、心臓の3Dプリントモデルを製作した仏Biomodex社CTOのシッダハース・ラジュはこう話す。
「医療ミスが米国における死因の第3位だという研究結果があります。外科医の教育コスト・リスクが非常に高い現状に対し、MRIやCTスキャンを活かして本物の臓器のサイズや色彩を反映した3Dモデルを実現できれば、世界中の医師と患者に大きく貢献できると考えています」
このように、コンピュータで計算されたシミュレーションやモデリングの活用は、治療、医師のトレーニング、健康管理の啓蒙など、医療機器やヘルスケアの現場を一新させようとしている。今回焦点を当てているシミュレーション技術においては、現象再現を扱う計算科学や模擬体験を扱う訓練用を主な前提としているが、シミュレーション技術の活用はもちろん医療に限った話ではない。日本では特に、自動車業界、エレクトロニクス業界などで普及が進む。ダッソー・システムズ社でポートフォリオ責任者を担うサマンサ・クマーは、シミュレーション技術の価値について次のように語る。
「最大のインパクトは、“バーチャルな体験とリアルな体験”の距離を縮めることです。物理テストをバーチャル上で行えれば時間的・コスト的・クオリティ面でのメリットを得られますし、学習効果の蓄積によって更なるイノベーションが生まれることが期待できます」
CAE(コンピュータを活用した設計技術)の歴史を振り返れば、シミュレーション技術の一番の押し上げ要因は、安いハイパフォーマンスコンピューティングにある。つまり、どのくらい安価に利用できるかが駆動要因であるため、端的に言えば、シミュレーション業界はムーアの法則の恩恵をダイレクトに享受してきたといえる。
■コンタクトレンズの付け心地を飛躍的に改善
心臓のパーソナライズ化と聞くと、多くの人々が縁遠く感じてしまうだろう。ただ、パーソナライズ・メディカル・デバイスの実現は、外部に装着するものでも体内に埋め込むものでも、同じワークフローをたどる。その実現には基本的に3つの技術ーー、スキャン(生体計測)、シミュレーション自動化、個別製造が必要となる。
そこで、他の事例も紹介したい。コンタクトレンズのパーソナライズ化である。現代のコンタクトレンズは手頃な価格帯でまとまった量を手に入れられるが、当初は個人に合わせて一個ずつ作製していた。つまり、コンタクトレンズの歴史はカスタムメイドから始まったわけだが、軸に対して左右対称ではないパーツをつくる技術が当時はなかった。1971年に世界で初めてソフトコンタクトレンズを製品化させたボシュロム社を経て独立した、米オプティマル・デバイス社長のロブ・スタップルビーンはこう話す。
「目の測定、生産、シミュレーションの技術が大きく進歩したことを受け、再びカスタムメイドが主流となります。目の状態だけでなく、眼球そのものも一人ひとり全く異なるため、当然どんなレンズが最適かも人によって異なるのです。また、取り外しが簡単なコンタクトレンズは、パーソナライズ・メディカル・デバイスの手始めとしやすい身近な存在といえます」
目の形をスキャニングして、コンタクトレンズの個人向けカスタマイズが一般化することによるメリットは大きい。複雑な症例にも柔軟に対応できる上、コストも抑えやすい。ドライアイに対する抵抗力を強めるなど、一般ケースのつけ心地改善にも大きく寄与する。靴を買う時に、店頭に並んでいるモノではなく、足を測ってオーダーメイドで買うことで履き心地が向上する感覚だ。検眼のフローとしては、患者の眼をスキャンするという作業が一つ加わるが、繰り返し色々なレンズを試す必要がなくなるため、医者と患者双方にとって時間・コストの削減につながる。
■人工膝関節や弾性臓器立体モデル
日本国内においても、シミュレーション技術を活用した、患者にとってより負担の少ない医療機器の研究が進んでいる。東京大学大学院工学系研究科の光石・杉田研究室では、患者一人ひとりに合わせた人工膝関節を研究している。CTスキャンによる情報と筋骨格の3D情報を組み合わせることで、膝の容態を中長期視点でシミュレーションする。
現在、同領域の患者数は国内で約100万人に及ぶが、膝の形や靭帯は一人ひとり違うにも関わらず、人工関節を大別すると6種類しか存在しない。それに加え、正座や体格といった日本人特有の慣習・要素があるため、そもそも欧米モデルからの応用が適さない部分もある。そのため、これらを加味した、患者個人に応じた手術支援システム開発、そしてカスタムメイド医療が求められている。
シミュレーション化は、患者の理解度を深めることにも役立つ。従来、医師が診断結果を伝える際、手元の数値を確認してどのように結論づけたかを患者側から理解できるものではなかった。しかし、各数値を反映した足の動きをスクリーン上に映し出せば、術後に回復した時のイメージを描きやすい。また、時間軸での利点について、同研究室の舒利明は次のように話す。
「現在、膝の置換手術をした患者が慣れるまでに2年程かかり、人工関節の寿命は約15年とされています。この研究を通じて、慣れるまでの期間短縮に加えて、再調整までの寿命を30年程までに延ばしたいです」
一方、名古屋市立大学医療デザイン研究センター長の國本桂史らの研究グループでは、患者のCT画像をもとに、実物の臓器のような弾性を持つ腎腫瘍モデルを3Dプリンタで作製、同モデルを手術支援ロボットで切除する事前シミュレーションに成功している。
腎臓には多くの血管等があり、可能な限り正常な腎臓組織を傷つけずに病巣部分を切除する必要があるが、同シミュレーションを経て手術した患者の経過は良好だという。弾性臓器立体モデルを利用した手術のシミュレーションが、より患者に負担の少ない手術につながることが実証された形だ。
医療用途の3D臓器モデルを作成して人体に適用するためには、柔らかい材料と硬い材料双方の特性について考慮する必要があるが、この方法論が確立すれば、人工臓器移植や術前シミュレーションに大きな影響を与えていく。今後は、モデリングにおける時間軸の考慮も重要になる。人体は刻一刻と変化しており、特に幼児や成長期の子供にとってはその変化が顕著だからだ。
実際の外科手術の前に仮想手術を行うなどーー、シミュレーション技術の活用は、より低侵襲・低コスト・質の高いケアを生み出す上で有用だ。各取り組みの進展に期待が高まる。