家康から盛んに名前を間違われていた夏目広次とは、何者なのか
大河ドラマ「どうする家康」では、甲本雅裕さんが演じる夏目広次が家康から、盛んに名前を間違われていたシーンがあった。広次とはいったい何者なのか、考えることにしよう。
大河ドラマの中で、夏目広次はたびたび松平家康から名前を間違われていた。人名辞典の類を見ると、「夏目吉信」と書かれているが、実際は一次史料で確認できる「夏目広次」が正しいとされている。以下、「広次」で統一する。
そもそも夏目氏の本貫の地は、信濃国伊那郡夏目村(長野県伊那市ほか)だった。信濃国更級郡夏目郷(長野県長野市夏目大字)という説もある。いつの頃からか、夏目氏は三河国に移り住み、松平家に仕えたという。
広次の父は、吉久という。吉久は、松平清康・広忠の2人に仕え、永禄11年(1568)に亡くなった。広次が吉久の子として、三河国幡豆郡豊坂村(愛知県幸田町)で誕生したのは、永正15年(1518)のことである。
永禄4年(1561)、広次は家康に従って出陣し、長沢城(愛知県豊川市)を攻め落とした。翌年には、板倉重定が籠る八幡村城を攻撃したが、家康勢は敗北を喫した。家康勢が撤退する際、広次は殿(しんがり)を務めて奮戦した。これにより家康勢は、無事に逃げ帰ったのだ。
戦後、家康は広次の軍功を大いに称え、備前長光作の脇差を贈ったという。これは、広次にとって大変な名誉となった。つまり、広次は家康家臣団の中でも、ひときわ目立つ功臣だったといえる。しかし、家康の期待は見事に裏切られた。
永禄6年(1563)秋頃に三河一向一揆が勃発すると、広次は津半右衛門、乙部八兵衛、久留正勝ら門徒とともに野場城(六栗城説も)に籠城し、あろうことか家康に反旗を翻したのである。これは、家康にとって驚天動地のことで、予想外のことだった。
やがて、一揆勢は敗色が濃くなり、乙部八兵衛が家康方に寝返ることで、城は落城してしまった。広次も松平伊忠によって、生け捕りにされたのである。伊忠は家康に広次の助命嘆願を申し出ると、それは許された。以後、再び広次は家康に仕えたのである。