徳川家康を姫プ!脱糞敗走する家康を救った徳川四天王「酒井忠次」エピソード紹介
徳川四天王は、徳川家康に仕える「井伊直政」「榊原康政」「酒井忠次」「本多忠勝」ら四名の総称で、全員が家康の危機を救った英雄ばかり。なかでもリーダーの酒井忠次は幼少期より家康のピンチを幾度となく救った「姫プ」の天才です。
姫プとは、通称「姫プレイ」の略であり、オンラインゲーム上で姫を守るかのように仲間を介抱しながらゲームを進めるプレイスタイルのこと。
戦乱の世に巻き込まれた非力な姫のように幾度となく危機に巻き込まれる家康を、支えるように天下へと導いた縁の下の力持ちです。
今回は、そんな酒井忠次の姫プエピソードについてみていきましょう。
・一心同体の忠次と家康
1527年、三河国の酒井家に産まれたのが酒井忠次です。
酒井家は三河国領主・松平家の家臣であり、忠次は当主・松平広忠の命をうけて広忠の息子・竹千代(徳川家康の幼名)の護衛を担当しました。
家康が今川家の人質として送り出された際には忠次も同行しており、同じ人質として今川家で十数年余りを過ごしています。
そして1560年、今川家当主・今川義元が織田信長に討ち倒されました。
今川家の滅亡により、自由の身を取り戻した家康は三河国に帰還して独立を果たします。
・天下取りのスタートライン
1563年、三河国の統一を目指す家康は一向宗と対立。徳川家臣のなかには一向宗信徒は数多くおり、その大半が寝返ったため、徳川家は勢力が二分するほどの危機的状況に陥ってしまいます。
この徳川家康絶体絶命のピンチを支えたのが、長年人質生活を共にした相棒の忠次でした。
酒井家も裏切り者は続出したといいますが、忠次は家康の味方であることを貫き通したのです。
苛烈を極めた戦いの結果、家康は一向宗の反乱を鎮圧して三河国統一を果たしました。
このとき徳川家康は、ようやく天下取りのスタートラインに立てたのです。
・忠次の伝説
徳川家康に忠誠を示した酒井忠次・石川数正の両名は、徳川家臣団のトップとして君臨しています。以降も様々な戦場で家康を支えました。
そして1572年、織田・徳川連合軍は武田軍と激突(三河ヶ原の戦い)。徳川軍は敗走を余儀なくされ、家康は浜松城での籠城作戦へと切り替えました。
このとき家康は武田信玄の猛威に恐れを抱き、脱糞しながら敗走したという逸話もあるほどです。そんな家康のピンチを救ったのは、またもやあの男、忠次でした。
浜松城へ逃げ込んだ忠次は、櫓上で太鼓を叩いて武田軍を撤退させたのです。
この伝説は諸説ありますが、忠次は太鼓の音で伏兵の存在を匂わせて武田軍を退かせたと伝えられています。
武田軍を指揮した武田信玄の経験や知識量の高さを逆手に利用した、忠次の天才的な奇策といえるでしょう。
そんな、酒井忠次の伝説のワンシーンを紹介した看板や銅像が愛知県岡崎市に設置されています。
すぐ近くには他の徳川四天王も勢揃いしていますので、ぜひ足を運んでみてください。