【深読み「鎌倉殿の13人」】平重盛が生きていれば、平家は滅亡しなかったのか
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、平重盛の登場を期待できないだろう。よく言われることだが、重盛が生きていれば、平家は滅亡しなかったという。その点を深く掘り下げてみよう。
■平重盛とは
保延4年(1138)、平重盛は清盛の嫡男として誕生した。保元の乱、平治の乱で清盛が大活躍し昇進すると、重盛も同じく昇進した。清盛は太政大臣に上り詰め、重盛は内大臣になった。小松第(京都市東山区)に居を構えたので、小松内府と称された。
しかし、重盛は病気がちで、治承3年(1179)に病没した。重盛の死により、弟の宗盛が家督を継ぐことになった。周知のとおり、宗盛はダメ武将で、平家が滅亡する一因ともなった。「ああ、重盛が生きていれば、平家は滅亡しなかったのに」といわれる所以である。
では、重盛とは平家をさらなる繁栄に導く逸材だったのだろうか。この点を考えてみよう。
■重盛は冷静沈着だったのか
重盛の評価は、かなり好意的なものが多い。中山忠親の日記『山槐記』は、重盛が心配りのできる人だと高く評価している。日記は同時代の人が記したので、信頼度が高いといえる。
べた褒めなのは『平家物語』である。重盛について「文章はすばらしく、心に忠の志があり、才芸に優れていた」と大絶賛である。また、心穏やかだったという。それは、後世に成った慈円の『愚管抄』も同じ評価である。
治承元年(1177)、後白河法皇らによる「鹿ケ谷事件」(平氏の追討計画)が露見すると、清盛は後白河を幽閉しようとした。清盛を諌止したのが重盛である。
重盛は一次史料、二次史料に優れた人物として描かれており、しかも「鹿ケ谷事件」では清盛に忠言をした。当時、清盛は暴走気味だったので、これを止められるのは嫡男の重盛しかいなかった。その重盛が死んでしまったので、平家は滅亡したということになろう。
■ダークな重盛
しかし、重盛には別の一面があった。
嘉応2年(1170)、子の資盛が関白だった藤原基房の車と鉢合わせになった際、基房の従者が資盛に暴行を加えた。一説によると、これを聞いた清盛が怒りに震え、基房に報復措置を取った。こうしたことも、清盛の悪評を高めることになった。
近年の研究によると、基房に報復措置を行ったのは清盛ではなく、重盛だったという。実は、基房は暴行を加えたのが資盛だったことに気付き、慌てて謝罪した。しかし、重盛は基房の謝罪を受け入れず、後日、基房の従者を襲ったというのである。
この例を見る限り、重盛は直情径行な一面もあり、必ずしも『平家物語』などで記すような優れた人物とは思えない。
■むすび
歴史上の人物の性格、あるいは優秀であったか否かを判断することは、極めて困難である。当たり前のことになってしまうが、人間には良い面と悪い面の二面性がある。
重盛が冷静沈着で教養豊かな優れた人物というのは一面であるし、子の資盛が暴行されたので、怒り狂って報復措置を加えるのも重盛の一面だった。
人間性というのは実に複雑である。いくつかの乏しい例を挙げて、「重盛が生きていれば、平家は滅亡しなかった」などとは、安易にいえないだろう。あくまで希望的観測である。