【戦国こぼれ話】徳川家康の祖父・松平清康を襲った「守山崩れ」とは、どんな事件だったのか
10月31日に松平シンポジウム「安城四代岡崎殿 安城松平家の異端児 清康」が安城市で催される。ところで、徳川家康の祖父でもある松平清康を襲った「守山崩れ」とは、どんな事件だったのか。
■松平清康と織田氏の関係
松平清康は、永正8年(1511)に誕生した。後世の記録によると、清康は弓矢の達人である一方、心優しく慈悲深い人物だったという。
清康は安城(愛知県安城市)から岡崎(同岡崎市)へと勢力範囲を拡大し、西三河の支配に成功した。その後も東三河の諸勢力を配下に収め、三河統一を成し遂げたのである。
同じ頃、尾張では織田信秀(信長の父)が勢力を伸長していた。隣り合わせの国だったので、清康と信秀が対立するには、さほど時間がかからなかった。
■清康の尾張侵攻
天文4年(1535)12月、清康は織田氏を挟撃すべく、1万余の軍勢を率いて尾張に侵攻した。
攻撃に際して、清康は甲斐の武田信虎、美濃三人衆(稲葉良通、安藤守就、氏家直元)、信秀の弟で犬山城(愛知県犬山市)の信光と連携し、周到に準備を進めていたという。
清康が攻撃目標とした人物については、織田信秀と守山城(名古屋市守山区)の松平信定(清康の叔父)という二つの説があるが、信秀であるという説が有力である。
清康が着陣したのは、守山城だった。その後、尾張に侵攻し、信秀と対決する算段だったのだろう。
ところが、清康の家臣・阿部定吉には、信定らと内通しているという噂が流れていた。これが「守山崩れ」の伏線でもあった。
■「守山崩れ」の真相
同年12月5日、清康の本陣で馬が暴れるというアクシデントが起こると、定吉の子・弥七郎は突如として清康を斬り殺した。享年25。
この事件こそが「守山崩れ」である。弥七郎は父・定吉が清康により成敗されたと思い込み、仇をとるため殺害に及んだという。
弥七郎が勘違いしたのには理由があった。前日の12月4日の夜、弥七郎は父・定吉から「流言により、清康から成敗されるかもしれない」と聞かされていたからである。
その後、弥七郎は清康の家臣・植村氏明によって、その場で斬殺された。当主の清康を失った松平方は、即座に本拠の岡崎へと引き上げたのである。
■清康死後の松平氏
『三河物語』には「清康が30歳まで生き長らえていれば、天下を治めることもできたはず」と、その死を悼んでいる。後世の書物の記述とはいえ、清康は大いに期待されていたようだ。
「守山崩れ」で清康が横死すると、後継候補となったのが子息の広忠(千松丸)である。広忠は、まだ10歳の子供に過ぎなかった。これでは、松平家の弱体化は避けられなかった。
松平家は支配体制が崩壊し、事態は極めて困難だった。そこで、一族の松平信定は松平宗家の家督を狙い、混乱に乗じて岡崎城を占拠したのである。
■まとめ
松平家の没落は、「守山崩れ」による清康の死が発端となった。あとを継いだ広忠も、思うように活躍できなかったのは周知のとおりである。
そのような事情から、松平氏は今川義元の配下となり、当時まだ幼かった竹千代(徳川家康)は人質として今川家に送り込まれたのである。