今週末、どこ行く? 江戸時代に殿さまも愛した名湯と美食の【温泉ごはん】で、ひとり温泉を大満喫
恵みの雨と、音を奏でるいぶりがっこサラダ
おいしい旅館「都わすれ」(秋田県・夏瀬温泉)
秋田県の小京都・角館から車で40分ほどの所に、夏瀬温泉「都わすれ」がある。山奥へ入っていき、途中から舗装されていない砂利道になる。この砂利道を20分ほど行くと到着る。
抱だきがえ返り渓谷沿いにひっそりと建つ「都わすれ」の客室は10室のみ。他に民家がないどころか、宿以外の人工物がない人里離れた秘湯の温泉旅館だ。
前項で秋田の姉妹旅館である乳頭温泉郷「妙乃湯」について記したが、「都わすれ」も同じ女将・佐藤京子さんの宿だ。今は妹の佐藤幸子(こうこ)さんと2人で2つの宿のもてなしをやっている。
フロントロビーで冷たいおしぼりを手にしてほっとした。部屋に入り、渓谷が眺められる露天風呂で汗を流す。
早い夕食時間を選び、食事処のテーブルにつくと、隣席とは薄い桃色の麻の布で仕切られていた。他人を気にせずに寛げるのは、ひとり旅をしている者には有難い。
ひとりだと食事の時に話し相手に困ることがあるが、「都わすれ」は席からの眺めが私を飽きさせなかった。
雨が降り注ぎ、中庭の茂る緑を濡らしていた。葉っぱからは水滴がしたたり落ちて、遠くの山々には霞がかかる。恵みの雨に見えた。眺めていると、日々の生活で蓄積された心の汗や垢、泥が洗い流され、潤いを与えてくれるような雨だった。
「せっかく来てくれたのに、雨だわね~」と女将の佐藤さんが微笑んだが、むしろ梅雨の季節に訪ねて良かった。
数々の旅館を泊まり歩けど、「都わすれ」の食事の美味しさは格別だ。
まず見栄えがいい。器を選ぶのは女将の仕事。ガラス製の涼やかな皿に、山菜のみずの生姜浸し、みずのたたき、根曲がり竹の味噌炒めなど、山のものが並ぶ。
椀ものは稲庭うどん。血合いの鰹節を出汁に使っているから、コクがある。
蒸し物はトマトと蟹の茶わん蒸し。トマトはいかなる役割をするのかと疑問があったが、出てきたのは食事の中盤。「お腹いっぱい、もう入らないかも~」と心の中で呟いたが、トマトがいい仕事をしてくれた。酸味が舌をリフレッシュさせ。ついでに胃袋には活が入り、まだまだいける気になってきた。
秋田由利牛石焼きや比内地鶏のつみれ鍋も珠玉。しかしながら、私の心に刻まれたのはいぶりがっこのサラダだった。メニューを見た時に、その組み合わせの味が想像できなかった。大きなどんぶりに、紫レタスと水菜が盛られ、刻んだいぶりがっこが入っていた。ドレッシングはなく、目の前でパルメザンチーズがすりおろされる。食すと、葉物の「シャキシャキ」と、いぶりがっこの「ボリボリ」という音色がした。チーズを噛む「ムニュッ」とする音はアクセント。軽くリズムを作り、音を響かせながら、初めて味わう和風サラダを愉しんだ。
仕上げに、小さな火鉢の上で焼かれた味噌たんぽが2本用意された。甘味噌と山椒味噌がそれぞれに塗られている。もっちりとしたたんぽからはお米の焼ける香ばしい匂いがした。甘さと辛みの味の違いで、全く飽きない。
完食! 我ながら笑っちゃうほどの食べっぷり。
夕食後、貸切風呂に行く。
江戸時代には角館の殿さまも愛したナトリウム・カルシウム・硫酸塩泉は、皮膚病に良しとされており、カルシウム成分は日焼けで火照った肌の鎮静効果もある。――という能書きを忘れてしまうほど、お湯が美しい。湯船の底に敷かれてある玉石がくっきりと見える。両手ですくうと、きらきらさらりと手のひらから落ちた。
貸切風呂に新たに作られた打たせ湯を肩に当てた。凝りがほぐれるねぇ~。
翌朝、目覚めてから湯に浸かり、朝食へ。
食事処のカウンターには生野菜とフルーツ、生卵にヨーグルトと牛乳が置かれてある。テーブルにつくと、鹿角の桃のジュース、角館名物の藁わらで包まれた納豆ととんぶりが用意されている。スタッフが持ってきた焼きたての玉子焼きはふわふわ。焼き魚も自分で選べた。
こんなにもご馳走が並ぶ中で、目を引いたのは樺か ばざいく細工が施された水筒だ。「ブナ木の山塊から湧き出る水」と言葉が添えてある。水が身体に沁みわたる。命の水だ。降り続く雨を眺めながら、水のおいしさを味わった。
※この記事は2023年4月6日に発売された自著『温泉ごはん 旅はおいしい!』(河出文庫)から抜粋し転載しています。