三井住友信託社長のあまりにも空疎な所信
4月15日の信託大会において、信託協会長は、恒例の所信を述べています。今の会長は三井住友信託の社長ですから、そこには、同社の経営理念が引用されていて、「最善至高の信義・誠実」とあります。あまりにも立派な言葉であるが故に、誰も、実際に、それが果されているとは思わないでしょうし、事実として、果たされているとも思えません。かくも空疎な言葉を並べて所信とし、また経営理念とする神経とは、さて、いかがなものか。
「最善至高の信義・誠実」
「最善至高の信義・誠実」などという大きな言葉は、大きな言葉が常にそうであるように、空疎極まりないものとしてしか響きません。最善至高とは、神のことです。最善至高の信義・誠実は、神のみぞ達し得る境地です。それを、経営理念に掲げるとは、不遜にあらずんば、無意味な神頼みであり、おまじないの護符にすぎないものです。
また、信託協会長としての所信において、自社の経営理念を掲げるというのは、いかがなものかという気もしますが、これが、実は、二回目なのです。
信託協会の会長職など、所詮は、少数の大手信託銀行の社長の持ち回りにすぎないのです。今の会長は、5年前、住友信託の社長として、会長職にありました。そのときも、信託大会の所信で、「最善・至高の信義・誠実」という言葉を引用しています。どうやら、これは、統合前の住友信託にあった理念を、三井住友信託が継承したもののようです。
受託者精神の「本家本元」
今回の所信には、目を引くのは、受託者精神の「本家本元」という言葉です。これは、一体、何のことか。
信託協会長の所信なのですから、当然至極のこととして、信託の受託者としての責任に言及しないわけにはいかないのであって、事実、例年、何らかの言及があるのです。ですから、今回も、受託者精神を持ち出したのですが、その「本家本元」としての信託協会の立場をことさらに強調したのは、いかにも異様な感じでした。
これは、おそらくは、金融庁が、フィデューシャリー・デューティーを、幅広く、資産運用に携わるものに課すことにしたのと、深い関係があるのでしょう。実は、金融庁は、昨年の9月に公表した「金融モニタリング基本方針」のなかでフィデューシャリー・デューティーという言葉を採用するまでは、同じ概念を受託者責任と表現していたのです。
信託協会の会長として、所信を述べるにあたり、金融庁の重点施策に取り上げられているフィデューシャリー・デューティーを無視することはできないわけですが、歴史ある協会としては、敢えて、信託業務の伝統的な用語である受託者責任という言葉を用いながら、その「本家本元」としての立場を明瞭にしたいということなのでしょう。
精神論への大きな後退
しかし、今回の所信では、実は、受託者責任という言葉は見当たらず、受託者精神という用語に置き換えられています。これは、責任が実際に果されることを求めている金融庁に対して、逃げの姿勢を示すもので、立場の大きな後退ではないでしょうか。
前任の信託協会長は、みずほ信託社長でしたが、昨年の所信において、「今日的目線に立ってより高度な「受託者責任」を果たすことによって、信託に対する『信頼』の一層の向上に努めて参りたい」と述べていました。迫力はありませんが、健全な常識に基づく発言です。
それに対して、現任の三井住友信託社長は、受託者責任という伝統の重みある用語を放棄し、代りに、以下のように述べたのでした。その高度な作文能力、全く無内容なことを美辞麗句で修飾する技術において、また、当事者としての責任感の完全な欠落において、ここに記録するに値する迷言です。
「信託は、受託者に対する委託者や受益者からの高度かつ長期に亘る信頼を前提として成り立つ制度であり、高度な倫理観と専門性がその根本にある。
「最善至高の信義・誠実」というお客様本位の姿勢、「奉仕・開拓」の精神は、このような高度な倫理観と専門性に裏打ちされた受託者精神を具現化するものであり、今や信託のみならず金融業界全体に求められるものとなっているといっても過言ではない。
信託の担い手、受託者精神の「本家本元」として、今後も長期に亘るお客様の信頼にお応えするとともに、広く信託の理念を浸透させて参りたい。」
これでは、日本語としても、なってない。受託者精神を具現化するものは、実は、抽象的な精神論にすぎないわけで、全く無意味です。
無意味かつ無責任
「最善至高の信義・誠実」、「奉仕・開拓」は、ともに三井住友信託の経営理念ですが、何ら具体性のない精神論であって、受託者精神を具現化するものではありません。具現化とは、金融庁がいうように、実際に果されるものとしての具体的行動規範でなければならないのです。
受託者責任とは、受託者精神が規範に具現化したもののことであり、フィデューシャリー・デューティーとは、信託を包摂しつつ、信託を超えて、幅広く、資産運用の担い手に求められる具体的な行為規範のことです。金融庁は、資産運用関連事業の幅広い担い手に対して、フィデューシャリー・デューティーが実際に果されることを求めているのであって、美辞麗句を並べ立てただけの精神論など、どうでもいいことなのです。
しかも、信託の受託者としての責務を全うするという当事者としての自覚は、全く感じられません。「広く信託の理念を浸透させて参りたい」では、どうしようもない。それは、金融庁の仕事でしょうし、今の金融庁ですら、そのような実効性のないことはいいません。
信託の受託者として、責務を全うするために、何をなすべきかを考え、それを確実に履行する、その具体的な行動が求められるなかで、この発言は、経営者として、また業界団体代表として、あるまじきものです。
フィデューシャリー・デューティーとの関連
では、金融庁のいうフィデューシャリー・デューティーのなかで、信託の受託者としての責務は、どのような位置づけにあるべきなのか。
金融庁は、投資信託を強く念頭に置いて、「商品開発、販売、運用、資産管理それぞれに携わる金融機関がその役割・責任(フィデューシャリー・デューティー)を実際に果たすことが求められる」と述べています。
ここで、フィデューシャリー・デューティーというのは、いうまでもなく、関係各金融機関は、専らに、投資家、即ち、投資信託の受益者の利益のために、働かなくてはならないという厳格な責務のことです。要は、投資家の利益が関係各金融機関自身の利益のために損なわれること、即ち、利益相反について、その可能性がないことを確約すること、それがフィデューシャリー・デューティーなのです。
このうち、信託の機能は、資産管理です。もともと、投資信託というのは、その名の通り、投資家の資産を信託という容器に入れて保全を図ることによって成り立っています。信託の受託者責任とは、専らに投資家のために、資産の保全管理を行い、投資家の利益を守ることです。
それに対して、運用会社の責任は、資産の運用にかかわる投資判断を行い、信託に対して、投資判断に基づく執行の指図を行うことであり、販売会社の責任は、投資信託の商品内容を説明し、購入代金を受け取り、解約金、償還金、配当金を支払うなど、投資家と信託をつなぐ事務代行を行うことです。
これら関係各者が、専らに投資家の利益のために、という一点で連携してこそ、はじめて、フィデューシャリー・デューティーが実際に果されることになるのです。
事務屋への閉じ籠り
さて、信託の受託者責任は、フィデューシャリー・デューティーの基底にある大きな責任なのか、それとも、事務管理に限定された小さな責任なのか。
もともと、フィデューシャリー・デューティーという用語が採用されるまでは、それは、狭義の信託の受託者責任に対して、広義の意味で、受託者責任と呼ばれていたのです。今回、広義の意味での受託者責任は、フィデューシャリー・デューティーとして明確にされ、その結果、信託固有の受託者責任は、その一部としての位置づけになったわけです。
実際、そのような理解のもとで、信託協会長、あるいは三井住友信託社長は、フィデューシャリー・デューティーを受託者精神に置き換えたうえで、「今や信託のみならず金融業界全体に求められるものとなっている」と述べているのでしょう。
しかし、フィデューシャリー・デューティーは、実際に果たされるべき責任であって、精神ではありません。加えて、信託以外のものに対して、幅広く、フィデューシャリー・デューティーが課せられたからといって、信託固有の受託者責任が、その分、縮小するはずもありません。
ところが、信託協会長の口吻では、信託の責任は、フィデューシャリー・デューティーのなかで、事務管理という専門分野の責任に限られるということのようです。実際、信託業界では、言葉使いのうえでも、信託の受託というよりも、好んで、事務受託といっています。つまり、信託協会長としては、信託の責任を、できるだけ小さなものとして構成し、事務管理の専門性に限定したいのです。
「本家本元」が泣く
では、「受託者精神の「本家本元」として」といい放ったとき、その背後にあったものは、何だったのか。信託はフィデューシャリー・デューティーの精神の本家本元にすぎないのであって、具体的規範としてのフィデューシャリー・デューティーについては、その本家本元になる気などないという意味ではないしょうか。
ならば、信託協会長としては、受託者責任の本家本元は、投資運用業者等に譲り、自らを、受託者精神の本家本元として、象徴的存在に祭り上げようということなのでしょう。つまり、受託者責任を放棄し、単なる事務屋としての地位に、閉じ籠ろうということに思えるのです。
では、フィデューシャリー・デューティーの具現化など、全くの他人事ということなのでしょうか。「広く信託の理念を浸透させて参りたい」という情けない所信は、フィデューシャリー・デューティーの具現化の放棄を宣言するものなのでしょうか。
三井住友信託における利益相反のおそれ
ところで、三井住友信託といいますか、三井住友トラスト・ホールディングスは、傘下各社を通じて、信託業以外に、投資信託の販売や、投資運用業を行っていますが、これら資産運用関連業務において、自身のフィデューシャリー・デューティーは果たされているのか。
金融庁がフィデューシャリー・デューティーの履行を求めている業務として、投資信託の販売、投資運用業、信託業があります。三井住友トラスト・ホールディングスに限ったことではありませんが、銀行業を含めて、多様な金融関連事業を展開するなかで、これらフィデューシャリー関連業務を、他の業務と完全に分離し、利益相反の可能性を完全に排除することは、実は、容易なことではありません。むしろ、利益相反の可能性は蔓延しているといっていいでしょう。
例えば、三井住友信託が扱っている投資信託をみると、三井住友トラスト・アセットマネジメントのものが非常に目立つのに対して、同じ系列の日興アセットマネジメントのものは少ない。
これは、三井住友トラスト・ホールディングスの子会社紹介によれば、三井住友トラスト・アセットマネジメントについては、「グループの総合力を駆使しながら」とされ、日興アセットマネジメントについては、「独立色を持った資産運用会社として」とされていることと、関係があるのでしょうか。もしもそうなら、三井住友トラスト・アセットマネジメントの立場というのは、非常に微妙なものになるでしょう。
また、三井住友信託による企業年金の運用受託において、銀行業における債権者としての優越的な地位の濫用がないことを証明できるのでしょうか。
「最善至高の信義・誠実」という理念を掲げる限り、利益相反の不存在を積極的に証明できなくてはいけないはずですが、さて、それが、三井住友信託の社長に、信託協会長に、できるのでしょうか。