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内山高志「200パーセントやらないと決めていた」アマでの引退からプロ入りを決めた意外な理由とは

木村悠元ボクシング世界チャンピオン
現役時代の内山高志氏(写真:ロイター/アフロ)

7月6日都内某所にて、世界戦連続11度防衛を果たした、元WBA世界スーパーフェザー級チャンピオン内山高志氏(39=元ワタナベ)のトークイベントが行われた。

現在は、東京新宿区四谷3丁目に「フィットネス&ボクシング KODLAB」をオープン。

後進の育成に努め、秋には内山高志の冠の新大会が開催される。

引退後もボクシングを盛り上げるために、活躍している内山氏に話を聞いた。

きっかけは辰吉さん

ーーーボクシングを始めたきっかけは何ですか?

内山:僕は、中学生の時サッカー部だったんですけど、2年生の時にテレビをつけたら、たまたまボクシングがやっていて。

それが、辰吉丈一郎さんの試合でした。

その時は、まだ辰吉さんという人を知らなかったんですが、この人のボクシングは面白いなと興味を持ちました。

それから、ボクシングがテレビでやっていると必ず観るようになり、高校ではボクシングをやろうと決めました。

ーーー始めたのは高校からですか?

内山:はい。

ーーー高校時代で一番成績を残したのは、どの試合でしたか?

内山:最後の国体準優勝です。

ーーーそれから、拓殖大学に進学。ボクシング部がとても強い大学ですよね。

内山:同級生が10人入部しましたが、そのうち6~7人は高校でチャンピオンになった人達で、僕は本当に下のほうでした。

ーーー当時は、内山さんが荷物番をしていたと聞きました。

内山:試合に出ない1年生が、荷物番をすると決まっていました。

みんな補欠とかレギュラーだったので、残った僕と、もう一人でいつも荷物番をやっていました。

ーーー大学1、2年生の時はどうでしたか?

内山:1年生の時は、そんなに強くなかったかな。

ーーーどの辺から手応えを感じましたか?

内山:大学1年生の11月に全日本選手権がありました。そこで、僕の2つ上だった3年生のレギュラーの人とトーナメント表で当たって、僕が勝ったんです。

次の年からレギュラーになり、「もっと練習して強くなりたい!」という気持ちが強くなりました。

ーーーなるほど。大学を卒業後は?

内山:大学4年生の時に内定をいただいて、就職が決まっていました。

ただ、内定をいただいた2週間後に全日本選手権があり、その大会に出場したら優勝してしまいました。

ーーー優勝すると、全日本の代表メンバーになりますよね?

内山:はい。合宿で海外に行ったり、海外試合に呼ばれたりします。

なので、内定をいただいた会社にお断りの連絡をして、そこから1年間はフリーで活動していました。

 

そして、全日本で優勝し、海外のメダルを取りました。それから、アテネオリンピックに出たいと思い始めました。

そのためには、仕事をしなければいけないと、大学を卒業した次の年からサラリーマンになり、仕事をしながらボクシングをしていました。

ーーー私が大学生で全日本の合宿に行った時、内山さんとご一緒させていただきました。

本当にトップレベルの選手でした。

内山:一緒に合宿しましたね。懐かしい。

インタビューを受ける内山氏 全てスタッフ撮影
インタビューを受ける内山氏 全てスタッフ撮影

オリンピックとプロの違い

ーーー当時、オリンピックへの思いはありましたか?

内山:アテネオリンピックには、絶対に出られると思っていました。国内では、3年間ずっと無敗で敵もいないし。

でも、結局行けなくて、本当は、そこで引退すると決めていました。

ーーーそうだったんですね。

内山:はい。最後の1年間は自分でもそんなに伸びていなかったので。引退してもまだ25歳だし、仕事をしようと決めていました。

ですが今となったら、オリンピックに出られなくてよかったです。

ーーー予選はどうでしたか?強い選手が、必ずしもオリンピックに出られるかというと、そうでもないですし。

内山:そうですね。あとルールも、違いますしね。

僕らの時は、リングの横にジャッジが5人いて、青と赤のボタンがあり、パンチが当たったと思ったら、その瞬間の1秒以内に、3人がボタンを押せば1点になるというものでした。

だから、黒人系の手が長くて、身体能力が高い選手に、当てては下がってとされた場合、

こちらが一発いいパンチを当てても、向こうの軽いパンチ一発とポイントは同じになってしまいます。

なので、点数を取るのが難しかったです。相手の体を触ったほうが勝つという感じでしたから。

 

言い訳じゃないですが、絶対にプロルールでは負けていないと思う時は多々ありました。

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プロになるきっかけ

ーーープロに入るきっかけは?

内山:24歳で引退し、ずっとサラリーマンをやっていたんですが、ボクシングは好きだったので、プロの試合はよく観に行っていました。

その時、八重樫東(世界3階級王者)や、僕の同級生の相澤国之(元 東洋王者)がデビューしていました。

先輩や後輩でも、プロでやっている人がいました。毎回応援に行くたびに、世界チャンピオンを目指して頑張っている姿がすごく格好よくて。

僕は、何となく仕事をしていたけど、彼等は目標があってすごく格好いいなと思い、「またボクシングがやりたい!」と戻ったんです。

でも、最初にアマチュアを引退した時、プロのジムからオファーをいただいたのですが、絶対に200パーセントやらないと決めていました。

ヘッドギアやグローブも大きいアマチュアでも、怪我をするし、痛いわけです。

ーーー内山さんは、本当に倒していましたね。

内山:倒したけれど、プロはヘッドギアもしないで、硬くて小さなグローブで殴り合っているじゃないですか。

それで、みんな血だらけになったりしている。あれを見ていて、普通の人がやる競技ではないな、と思っていました。

ーーー11度防衛したチャンピオンが、アマチュアの時はそう思っていたんですね。

内山:プロは、人生を懸けてやらなくてはいけない場所だと思っていたので。

あんなに殴られて、毎回怪我をして。だから、絶対にやりたくないと思っていました。

ーーー変わったきっかけがあったんですか?

内山:特にないです。何試合も観に行くようになって、やはり、燃えられる事はボクシングしかないなと思ったんです。

ーーーワタナベジムを選んだきっかけというのはあったんですか?

内山:きっかけは、ホンさんという韓国人トレーナーです。

韓国のオリンピック代表選手だった方で、後楽園ホールで会って、話した時に「ワタナベジムに練習に来い」と言われました。

ジムに行って、ホンさんと練習した時、「この人はボクシングの勝ち方を知っている、戦い方を分かっている」

「僕と同じ考えを持ったトレーナーだ」と思い、この人なら合うと思ってワタナベジムに行きました。

ーーーその時点で、ワタナベジムに決めたわけですね。

内山:はい。このトレーナーとだったらボクシングが楽しくできそうだと思いました。

後編に続く↓

内山高志 パンチングマシン驚きの600キロ超え ハードパンチャーの秘訣とは

元ボクシング世界チャンピオン

第35代WBC世界ライトフライ級チャンピオン(商社マンボクサー) 商社に勤めながらの二刀流で世界チャンピオンになった異色のボクサー。NHKにて3度特集が組まれ商社マンボクサーとして注目を集める。2016年に現役引退を表明。引退後に株式会社ReStartを設立。解説やコラム執筆、講演活動や社員研修、ダイエット事業、コメンテーターなど自身の経験を活かし多方面で活動中。2019年から新しいジムのコンセプト【オンラインジム】をオープン!ボクシング好きの方は公式サイトより

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