どんどん仲間が集まっていった、火薬陰謀事件
イギリスでは11月5日がガイ・フォークス・ナイトという記念日となっています。
このガイ・フォークス・ナイトは1605年に起こった火薬陰謀事件に由来しているのです。
この記事では火薬陰謀の首謀者の仲間集めについて紹介していきます。
どんどん仲間を集めていったケイツビー一味
さて、火薬陰謀事件の策謀者たちが誓いを立てた後、彼らは一旦それぞれの家に戻り、次の行動を模索していました。
議会が閉会していたため、次の開会日である1605年2月を見据えた準備を進める必要があるのです。
とはいえ、この時点では具体的な計画があるわけではなく、物事が動き出すのは6月9日のことでした。
この日、トマス・パーシーがノーサンバランド伯の支援を得て、ロンドンに拠点を構えることができたのです。
彼らが選んだのはウェストミンスターのジョン・ホワイニアードが所有する小さな家です。
パーシーはこの場所をアジトとし、仲間たちはそこで密かに火薬を貯め込むことにしました。
火薬の運搬は慎重に行われ、ケイツビーの宿舎があるテムズ川対岸のランベスから夜ごと小舟で火薬を運び込んだのです。
すべてが着々と進んでいたものの、一方でジェームズ1世はカトリック教徒への取り締まりを強化していました。
議会は7月に休会となったものの、それまでに反カトリック法案が成立しており、陰謀者たちにとっては一刻も早く行動を起こす必要があったのです。
計画が進む中、10月には新たな仲間が加わります。
ロバート・キーズは、財政的に困窮し絶望的な状態にあったものの、忠実で信頼できる人物としてフォークスと同じく火薬の管理を任されました。
また、12月にはケイツビーの使用人トマス・ベイツが計画に気づき、彼も仲間に加えられることになったのです。
ベイツは主要メンバーの中では唯一の平民であり、彼の参加は仲間たちに新たな視点を与えることとなります。
ただし、計画は思わぬ形で遅延することになります。
ペストの流行を受け、議会の開会は翌年の10月3日に延期され、策謀者たちはしばしの猶予を得ました。
この間、一味はウェストミンスター宮殿の地下に続くトンネルを掘っていたとされるが、これが本当に実行されたのかは疑わしいです。
後の裁判ではトンネルの存在は証明されなかったため、政府が作り上げた虚構の可能性もあります。
翌年の3月、再び一味が集結した時、ロバート・ウィンター、ジョン・グラント、クリストファー・ライトが新たに仲間に加わりました。
彼らはいずれも敬虔なカトリック教徒であり、エセックス伯の反乱に参加していた過去を持つ強者たちであったのです。
特に、ウィンターは神父たちの避難所を提供するほどの熱心なカトリック信徒であり、グラントはストラトフォード=アポン=エイヴォン近郊で武器や弾薬を蓄える重要な役割を担っていました。
こうして、新たな仲間を迎えた一味は、徐々に計画を進め、運命の日に向かって突き進んでいきます。
参考文献
アントニア・フレイザー著 加藤弘和訳(2003)『信仰とテロリズム:1605年火薬陰謀事件』慶応大学出版会