樋口尚文の千夜千本 第195夜『シン・仮面ライダー』(庵野秀明監督)
原作のクールさとテレビのキッチュさへの濃すぎる愛
1960年代、予算もかけ作品内容も練った円谷プロ=TBSの『ウルトラマン』『ウルトラセブン』に夢中だった子どもにとって、71年4月に始まった東映=毎日放送の『仮面ライダー』は、安づくりの映像をスピード感とキッチュな風味で乗り切らんとするジャンクフード的な魅力の塊だった。『ウルトラ』シリーズには時として文明批判、社会批判のようなテーマ性さえ含まれてまことにハイブロウであったが、テレビ映画の『仮面ライダー』にはそんな高尚なものはなく、ひたすら秘密結社ショッカーが繰り出す数々の怪人たちを同じく改造人間である仮面ライダーが必殺技で倒してゆく勧善懲悪モノだった。金のかかるミニチュアや合成などはほとんどなく、ひたすらライダーや怪人が等身大の生身の闘いを演ずるだけなのだが、その安さが子どもには親しみに映り、まんま公園や広場で「仮面ライダーごっこ」に転用できる近さがあった。
もちろんこの人気については、石ノ森章太郎(ここではやはり石森と言いたくなるのだが)が描き出した仮面ライダーそのもののデザインの新奇性、インパクトが大きな理由になっているには違いないが、あそこまで子どもたちを熱狂させたのは、その異様なデザインに対してストーリーや演出が至って単純でチープな勧善懲悪パターンであったからだ。しかし、石ノ森の原作マンガ(正確にはテレビ放映と同時進行したマンガ版だが)の仮面ライダーはストーリーにおいても改造人間の孤独を背負ったダークヒーローであり、画のタッチやコマ割りのセンスも映画的で、かなり大人っぽくヌーヴェル・ヴァーグ的な感覚さえ漂っていた。
ところがこの原作マンガをテレビ映画化すると、屈託ない勧善懲悪モノにされただけではなく、制作会社が東映であったために擬斗のシークエンスが「アクション」というより大野剣友会的な「殺陣」のフレーバーが強く、時々時代劇でも観ているような気分にもなった。そもそも当初は石ノ森原作のクールさにのっとって「変身ポーズ」さえなかったのが画期的だったのに、ほどなく時代劇で立ち回りの最中に大見得を切るような「変身ポーズ」が付け加えられた(このことについては「美術手帖」1995年6月号に「変身カットと変身ポーズの間に テレビヒーローの「変身」ギミック論」というタイトルで寄稿している)。そしてこの和モノの味つけがまた子どもたちを喜ばせ熱狂させたのだが、原作マンガのクールなヌーヴェル・ヴァーグ風味が好きだった私は、いつかこの感覚を正しく映像化した『仮面ライダー』を観たいと心から待望していた。
『仮面ライダー』には石ノ森本人が脚本・監督を手がけた回(第84話「危うしライダー!イソギンジャガーの地獄罠」)もあるので期待したが、まるでいつものテイストだった。当時、石ノ森が描くタッチに最も近かったのは、同じ71年に等身大ヒーロー物としての『仮面ライダー』のヒットに少なからず影響されて生まれた企画に違いない宣弘社=TBSの『シルバー仮面』第1話の冒頭付近のタッチだという気がするし、あのヌーヴェル・ヴァーグぶりは実相寺昭雄ほどの強烈な主張がなければなし得ないのだろう。劇場用作品『仮面ライダー THE FIRST』『仮面ライダー THE NEXT』では石ノ森原作のタッチに忠実なものを創ろうという姿勢がかなり見えていい線行きながら、やはりどうしても子どもっぽさから脱却できないのだった。一方でハリウッドの『バットマン』はどんどん原作のダークヒーローぶりに帰還し、あまつさえその傾向をシン解釈でどんどんエスカレートさせて行くのに、なぜ日本ではそれができないのだろうと思った。
前置きが長くなったが、このたびの庵野秀明監督『シン・仮面ライダー』の序盤には、テレビ映画版放映開始から半世紀余りを経て、ようやくダークな石ノ森原作のヌーヴェル・ヴァーグぶりをしっかり踏まえた作品が誕生したという感動があった。観ていて「これを石ノ森章太郎に見せたかった」と幾度も思った。またさらになんと庵野監督は、このクールな原作マンガと和モノの時代劇的センスのアマルガムであるキッチュなテレビ版の魅力さえも(ぐっとスタイリッシュなかたちで)再現しようと試みる。たとえばライダーのマスクをかぶるとクラッシャーが出たり、バイクが滑らかにサイクロン号に変化したり、VFXの時代でなければ描けない原作のシズルを実現しながら、一方でカット単位でテレビ版のアナログでキッチュな味を引用してみせたり、そのあたりの匙加減の細かさは圧巻である。あまり言わないが石ノ森ワールドの某キャラクターがしれっと越境しているのに驚いていたら、まさかの向田邦子=和田勉『阿修羅のごとく』のレフェランスまであって毎度ながらの「引用の織物」感も凄い。
ただしこれは庵野作品のいつものことながら、この表層的で目にみえるものの表現が快調に冴えわたる前半を経てラスボス的な存在が出て来たあたりから、物語がひとりごとのような文学性を増し、画も手もとから逸脱して壮大になって抽象性に走り出す時、映画は俄然失速する。それまで「仮面ライダー」という共通言語を介して庵野監督にアクセスしていた時は惹きつけられっぱなしなのだが、そこを通過して庵野監督の独白的世界に入るや、われわれは置いてきぼりをくらう(そのわけのわからないテンションに呑まれて感激している青少年はいるかもしれないが)。これはもはや定番の庵野節として諦めたほうがいいのかもしれないが、こういう文学的負荷をかけずに映画はもっとアホで薄っぺらでただ痛快……みたいなことではいけないのだろうか。映画の適正容量とはそんなものであり、しかしその限りに留まる時にこそ映画はしたたかに実り、弾ける。『シン・ゴジラ』は一見情報の洪水のように見えて、実はがらんどうなくらい単純な映画であったことでうまく行っていた。そしてあの作品は、それでいてじゅうぶんに庵野印の映画になっていたと思う。