「死の泰麺鉄道」戦争の真実と和解(4)再会
1991年、タイのカンチャナブリで元憲兵分隊通訳、永瀬隆さんと会うことを決めた英国人の元戦争捕虜(POW)、エリック・ロマックスさんの耳には「ロマックス、しゃべるんだ」という拷問の言葉がこだましていた。
しかし、実際に目の前に現れた永瀬さんは「本当にごめんなさい」「この約50年は私にとって長い苦しみの歳月でした。私にはあなたを忘れることはできなかった。あなたの顔を、あなたの瞳を」と言って、ロマックスさんの目を見つめた。
ロマックスさんの脳裏に浮かんだのは、永瀬さんから最後にかけられた「しっかりするんだ」という励ましの言葉だった。
ロマックスさんには、永瀬さんが自分と同じようにトラウマに苦しめられ、和解に取り組んできたことが理解できた。「あの拷問は忘れることはできないが、あなたを許します」と永瀬さんに伝えた。
「憎しみは消えるときがある」という言葉でロマックスさんは自伝『The Railway Man』を締めくくっている。永瀬さんのカンチャナブリへの巡礼の旅は64年から2005年にかけ、実に120回以上を数えた。
親友になった2人の交友はその後も続いたが、捕虜虐待がトゲになっていた日英戦後和解はその後、大きな展開を見せる。
1994~98年に在英日本大使館ナンバー2の特命全権公使として和解プロセスにかかわった沼田貞昭・元カナダ・パキスタン大使(現鹿島建設顧問)に当時の状況を振り返ってもらった。
戦後50年の95年、英国では捕虜虐待問題が一気に噴き出した。
沼田氏は、戦後処理には(1)法的処理(2)謝罪(3)和解という3つの問題があるという。
(1)法的処理
日本は51年にサンフランシスコ講和条約を結び、東京裁判だけでなく連合国の戦争犯罪法廷を受諾した。泰麺鉄道をめぐってはBC級戦犯として111人が有罪判決を受け、36人が処刑された。
講和条約で日本への賠償請求権は基本的には放棄された。しかし、接収された在外日本資産と強制労働への償い金として元捕虜1人当たり76.5ポンド、民間抑留者に48.5ポンドが分配された。
補償額があまりに少なすぎるため、日本強制労働収容所生存者協会(JLCSA)のアーサー・ティザリントン会長ら7人が94年、東京地裁に1人当たり1万3千ポンドの補償を求めて提訴する(2004年、最高裁で原告敗訴が確定)。
ブレア政権は00年、元捕虜、遺族である配偶者に1人当たり1万ポンドの特別慰労金を支給、国内問題として決着を図った。
沼田氏は「日英関係は発展し、捕虜虐待という過去の問題がノドに刺さっていました。これを講和条約の枠内で解決していこう、政府間でそごを出さないようにしようと英政府と連携しました」と振り返る。
(2)謝罪
戦後50年に出された村山富市首相の談話について、沼田氏は3つのキーワードを挙げる。
「植民地支配と侵略(aggression)」
「多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛(tremendous damage and suffering)を与えた」
「それに対して痛切な反省の意と心からのお詫びの気持ちを表明する(express my feeling of deep remorse and state my heartfelt apology)」
談話発表後の記者会見で、村山首相は「これは英国人の捕虜も対象としたものだ」と説明した。「これで謝罪の問題は一応の区切りがついた」と沼田氏は語る。
(3)和解
第二次大戦のビルマ戦線で将校をし、戦後日本との和解に尽力したフィリップ・メイリンズ氏(故人)は「第一次大戦で和解が行われず、第二次大戦が勃発した。和解こそが、かつて戦った双方にとって最終的な勝利である」という強い信念を持っていた。
日本側でも、贖罪と慰霊の巡礼を続けた永瀬さんのほか、多くの日本人ボランティアが戦後和解にかかわった。
故郷の三重県旧入鹿村(現熊野市紀和町)に英国人捕虜の墓があることに気づいたのをきっかけに、日英の和解事業にかかわるようになった恵子ホームズさん。
ビルマ戦線から生還、英国に在住して、旧英兵との和解に努めてきた日英友好団体、ビルマ作戦協会の平久保正男会長(故人)。
捕虜がたくさん出た英ケンブリッジで元捕虜と日本人の間をつなぐ活動「ポピーと桜クラブ」を展開した歴史学者の小菅信子・現山梨学院大学教授。
沼田氏は「ひと月に1回、2カ月に1回のペースで元捕虜の方たちと会っていましたが、政府として彼らと向き合って和解しましょうと言っても、なかなか彼らが受け入れるところとはなりません。触媒として大きな役割を果たしたのがボランティアの方々でした」と語る。
日英戦後和解は法的措置、謝罪、和解という3つの歯車がうまく回り始めた。
(つづく)