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体操金メダリスト・塚原、アラフォーまでの現役生活は「尋常じゃない」

楊順行スポーツライター
(写真:アフロ)

先週末に発見した小さな記事。

「アテネ金の塚原が引退」

それによると、04年のアテネ五輪で男子団体の金メダル獲得に貢献した塚原直也が現役を引退するという。

思い出したのは、ちょうど1年前に取材したときのことだ。

父は、ムーンサルトを生み出した"ツカハラ"こと、オリンピック3大会に出場した72年のミュンヘン五輪金メダリスト・塚原光男である。母は、メキシコ五輪代表の千恵子。体操を始めるのは自然な成り行きに思えるが、

「小学生時代はサッカーをやっていました。だけどチームが弱く、なかなか勝てない。それよりも、自分一人の力が結果に直結する個人競技に気持ちが傾いていったんです。そんなとき、88年のソウル五輪を見たんですね。そこから本格的に体操を始めたのが5年生のときですから、幼いころに感覚をつかんでおきたい体操ではかなり遅いほう。選手コースの子たちからは、だいぶ遅れていました。だけどバック転ができ、次はバック宙……と、なにかができるようになるたびに達成感があり、楽しかったですね」

オリンピックに出たい、と宣言した。母に、

「目標をかなえるには、生半可なことじゃない」

と本気度を疑われると、

「うまくいかなくても、つらくても頑張る」

これが、競技生活のスタートだ。だが確かに、生半可じゃない。たとえば体操には、最低限の筋力が必要だ。技術練習のほかに、過酷なトレーニングが要求される。バーベルを持ち上げようとすると目の下の毛細血管にまで力が入り、それがたび重なるだけで粒のような血豆ができたりする。それでも、強制されたのではなく自分で選んだ体操だ。なにより、なにかができたときの達成感がなんとも心地よく、塚原は急カーブで成長した。

小学生時代の作文を実現した

高校2年でインターハイを制覇すると、翌年も連覇した。進学した明治大では、直後の96年から全日本選手権5連覇。日本のエースとしてアトランタ、シドニーとオリンピックに出場し、そこではメダルに手が届かなかったが、3度目となるアテネ五輪団体総合でついに金メダルを獲得。日本では史上初の、親子五輪金メダリストとなった。「オリンピックで金メダルを獲得する自分に心がわくわくしてくる」と作文に書いた小学生時代の夢を実現したわけだ。

ただ、塚原はこういった。

「金メダルというのは、尋常ではかなえられない夢ですよ。ふつうじゃない夢を実現しようというんですから、ふつうじゃないことをやらないとね。僕は2日間練習をしないだけで感覚が狂いますから、ケガをしたとき以外、練習を2日休んだことはありません。また四六時中体操のことを考えて眠れないこともありましたし……」

確かに、オーストラリア国籍を取得してまでオリンピックに傾ける執念も、尋常じゃない。08年、北京五輪に向けた国内予選でわずかに及ばず、代表落ちすると、オーストラリアに留学し、同国代表として自身4度目の五輪出場を目ざしたのだから。拠点もオーストラリアに移し、若手の指導にもあたりながらトレーニングの日々だ。だが、国籍取得の関係で12年ロンドン五輪には間に合わず、今回も残念ながら選考会に落選した。もしオーストラリア代表としてリオ五輪に出られたら、出るだけではなく多少の存在感くらいは示したい……そう語っていた野望は、さすがにかなわなかった。

それにしても……超人並みの筋力が要求される体操競技で、40歳寸前まで現役を続けるというのは、重ね重ね尋常ではない。今後は朝日生命で、父とともに後進の指導にあたるという塚原。そういえば1年前には、

「指導者は他人と比べるのではなく、その子なりに進歩すれば、それだけで十分な成果だという意識が大切だと思います。僕が幸いだったのは両親とも自由放任、体操の英才教育を押しつけなかったこと。なにしろシドニー五輪前、ちょっと調子が上がらなくて父に相談すると"気のせいだよ"の一言でしたから(笑)」

と話してくれたものだ。04年のアテネで獲得した団体金メダルは28年ぶりと、体操ニッポンの復活を支えた一人でありながら、競技開始時には周りよりも遅れていたという塚原のこと。子ども心の機微に敏感な、いい指導者になるのではないか。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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