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「あの選手がいまや上位候補」のシンデレラ・ストーリー 2014ドラフト/エピソード3

楊順行スポーツライター

それにしても、あの選手が上位候補とはねぇ。たとえば、高木伴投手(NTT東日本)。思わず耳を疑ったのは、東農大4年の春に取材したときだ。

「いやぁ、大学で野球ができるなんて……ありがたいです。なにしろ中学を卒業したら、友だちのお父さんの工務店で働くつもりでしたから」

聞くところによると、埼玉・川口西中時代は部活動の軟式野球でショートだが、高校で野球を続けるつもりなどさらさらなかったらしい。いや、進学するつもりもなかったのだ。それが、唯一受験した市立川口高に「たまたま(笑)」合格した。すると、肩の強さに目をつけた長井秀夫監督から「140キロを投げられるピッチャーにしてやる」と転向を進められた。すると、当初は120キロ台だったのが、3年時には本当に144キロに。春の県大会では、熊谷を相手に2安打17三振で1失点の快投を演じている。

ただ3年夏は、背筋痛の影響でベスト8にとどまり、大学でも「投げ悩み。フォームが崩れて納得がいかない」まま、3年終了時点で2勝にとどまっていた。それでもその年、元巨人などで新人王にも輝いた関本四十四さんの臨時コーチを受け、下半身の使い方などに長足の進歩を見せる。4年時には、東都の2部ながら春秋で5勝をマークした。

社会人入りした13年は、最速147キロをマークするなど、強豪で主戦の一角に。11月には社会人の投手としてただ一人、侍ジャパンに選出され、台湾遠征も経験している。今季こそ調子が上がらないが、それにしても……中学で野球を辞めるつもりだったのが、ドラフト候補とは、ね。しかも高校、大学と、決して知名度が高いとはいえなかったのだ。だから人生、おもしろい。

高校1年は球速94キロの「ショボい凡人」

大学まで一般には無名といえば、菅野智也投手(JR東海)もそうだ。東京情報大4年の春、千葉県リーグで5勝をあげ、防御率0.62のMVPで初めて大学選手権に出場し、神宮でも日大国際学部を6安打完封。そこで報道陣に、同年齢の菅野智之(東海大、現巨人)と一字違いということを指摘され、

「やっと気づいてくれましたか、という感じでした(笑)」(ただし、漢字は一字違いでも読みはカンノ)

東総工高3年時には、1学年下の杉山翔大(現中日)とのバッテリーで春4強、夏8強が最高成績だが、それにしても上出来だったのだ。なにしろ、

「高校に入って、初めてスピードガンで球速を計ったとき、94キロ。次にちぎれるくらい投げて104キロ。監督がため息をついていました(笑)」

それが、ひたすらに走って走って下半身を安定させると、「投げるための筋力がついて、1年後には20キロ速くなっていました。3年のときは、137がMAXでしたね」。大学では、横手から制球される速球は143キロに達し、通算20勝を挙げている。社会人でも、1年目から公式戦に出場し、14年は都市対抗予選6試合、36回3分の1を投げるエースに成長した。中学時代からのサイドハンドで力のあるストレート、さらにスライダーと2種類を投げ分けるチェンジアップは、左打者にとっては逃げていく軌道だ。

思い出すのは取材した大学時代で、

「プロへの意識はもちろんありますが、すごいヤツはもともと、高校からプロへ行きます。高校のときは成田の唐川(侑己・現ロッテ)にコールド負けしたし、千葉経済大附の丸(佳浩・現広島)にはホームランを打たれていますから。自分はショボい凡人、一歩ずつ段階を踏んでいきますよ」

と語っていたものだ。その積み重ねた一歩の先に、ようやくプロが見えてきたのではないか。スガノだけではなく、カンノもよろしく。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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