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「海のおじいさん」に導かれた人生   【シリーズ】地方に移住したパパたちを追って~広島編〈4〉前編~

吉田大樹労働・子育てジャーナリスト/グリーンパパプロジェクト代表
平田さんが所有している「ゼーファーラー」号(手前)(平田さん提供)

<グリーンパパプロジェクト企画>「シリーズ 地方に移住したパパたちを追って」第4弾は、広島市佐伯区で「一級建築士事務所アトリエ平田」を営んでいる同事務所代表取締役で一級建築士の平田欽也さん(54)を取り上げる。

平田さんは大学卒業後、東京で就職。30台半ばでUターンで広島に戻ってきた。今回の前編では、東京でのキャリアや広島で取り組んでいるヨットのことについて話を伺った部分をお届けしたい。

(取材日:2015年10月17日)

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東京でのキャリアを通じて地方を知る

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吉田:今日はよろしくお願い致します。平田さんは、広島市のご出身ですね。

平田:そうです。いまは広島市佐伯区ですが、1985年3月に合併するまでは佐伯郡五日市町で、日本一人口の多い「町」※でした。

※広島市に合併時点の五日市町の人口は96,441人とされる。

吉田:そこで幼少の頃は過ごされていたということですね。

平田:いま住んでるところが実家で、両親はもう亡くなってるんですけど、そこで生まれて大学までそこで育ちました。大学はこの事務所のそばにある広島工業大学です。卒業して東京の設計事務所に就職し、34歳まで東京にいました。2~3年修行して広島に帰ろうかと思っていたのですが、世の中がバブルを迎えまして景気がすごい状況になってしまって・・・

平田欽也さん
平田欽也さん

吉田:自分はその頃は小学生だったので、どんな状況なのか体感してないんですけど、やっぱりすごかったですか?

平田:若かったのでそこまではわかりませんが、仕事のプロジェクトの規模が大きくて何百億というようなものもありました。横浜八景島の設計にも携わったんですよ。そのぐらいビッグな案件がいっぱいあって、2、3年どころの騒ぎじゃないわけですよね。辞めさせてもらえないんです。プロジェクトも2、3年かかりますからね。ただ、こちらもスキルアップするし、仕事も楽しくなるし、最後は何とか34歳で広島に帰ってきました。

吉田:東京にいる間に結婚もされたんですね。

平田:はい、同じ高校の同級生でした。本当はここに座って一緒に仕事してるんですけど、今日は子どもの学校の文化祭に行っているようです。

吉田:一緒にお仕事されてるんですね。

平田:そうなんですよ。27歳の時に結婚して彼女も上京した感じです。

吉田:交際期間が長かったんですね。

平田:まぁ確認したわけじゃないですけど、一応そういうことになってますね(笑)

吉田:お子さんはいつ生まれたんですか?

平田:広島に帰ってきてからですね。いま高校2年生(息子)と中学3年生(娘)です。東京にいるときは、やっぱり仕事が忙しいし、うちの家内も東京の別の設計事務所に勤めていたので、仮住まい的な意識がずっとあって、子どもを作るならもっと落ち着いた環境でという気持ちがありました。なので2人とも30半ばのいい年齢になってしまいましたね。

吉田:最終的に東京での仕事を辞めて広島に帰る決断をするきっかけみたいなのはあったんですか?

平田:きっかけは、やはりバブルがはじけて仕事と落ち着いたっていうのが大きいですね。ちなみに各地のプリンスホテルをたくさん手がけたんですけど、パタっとなくなったんですね。

吉田:プリンスホテルも全国にいっぱいできましたが、あの頃のものが多いですよね。

平田:私は最後に鎌倉プリンスホテル、小説「失楽園」の舞台になった場所ですが、チーフで担当させてもらいました。94、5年くらいですね。で、そういう大きいプロジェクトはなくなったんですが、地方のプロジェクトがあって、博物館とか、駅だとか。私は地方行くの好きだったんで、手を挙げて担当させてもらいましたね。月に1回ペースで行って2、3日で帰ってくるみたいな感じです。宮崎、島根、岐阜、北海道などにも行きましたね。だから東京にいながら東京の仕事じゃないことばかりをやってました。そうすると、元々大都会の人間じゃないんで、地方に行って喜ばれる建物を作ると、まちおこし的な建物はやっぱり多いので、ものすごくその地域の方から歓迎されますし、こっちもそれに応えようとしますしね。大都会の商業主義的な建物よりもやっぱりやってて「気持ちがいいな」と感じました。

吉田:実際にその地域の人と触れ合ったりできるのは大きいですよね。

平田:そうですね。岐阜では、お祭りの会館を作りましたね。島根では、木造の駅を作りましたね。日原(にちはら)駅というところです。JRが一度は駅は廃止すると決めたのを、地元の自治体が公民館として作り直して、駅舎としても利用できるようにしたいと。地元の人たちは駅を残したい一心だから必死でしたね。

吉田:ある意味そういう必死さも感じながら、どういう設計、造りにしてったらいいのかを考えるわけですよね。

平田:公民館だけじゃなくて、消防団の車庫を一緒にくっつけたりとかして、何とか工夫をして駅にするわけです。知恵を出して。だから割と、いま思えば、帰ってきたいと思うのはそういう地方の仕事をやり始めたことが、元々帰りたいという気持ちに拍車をかけたところもありますね。

吉田:いろんな地方の現状も目の当たりにしながら、そういう力になりたいみたいな気持も湧いてきたわけですね。

平田:親もその頃は健在でしたので、島根の仕事や山口の仕事をする際に時々は広島経由で行ったりして、親の顔を見たりするんですが、どこの地方に行っても自分の親ぐらいの年齢の人間がいるわけですが、「はよ帰ったれ」と言われるわけです。

広島の近くで仕事をする際は、金曜日に仕事を入れて帰ってきて、週末は趣味のヨットをやってました。

吉田:ヨットはいつから始めたんですか?

平田:ヨットは小学5年生くらいからですね。

吉田:そんな小さい時からですか。何か影響があって始めたんですか?

平田:私はいまも住んでいますが、五日市の漁港のすぐそばで生まれ育っているんです。いまマリーナになっています。

吉田:本当に海の目の前、近いところで育ったんですね。

平田:ポンポン船が聞こえるような港だったんですけど、その当時はまだヨットを持っている人はほとんどいなかったんです。たまたま隣に越してきた人がヨットを持っていて、漁港に係留していたんですね。当時は広島にマリーナはありませんでしたので。小学5年生ですから乗りたいですよね(笑)

吉田:そうですよね。

平田:指を咥えて見てたらですね、その方が乗せてくださったんです。それが縁ですね。

吉田:それどれぐらいの大きさのヨットだったんですか?

平田:7m50cm、25フィートっていうんですけど、4人ぐらい大人がゆったり乗れるぐらいです。当時としては大きい船ですが今では小さいほうですね。

吉田:それからちょくちょく乗らせてもらうような感じだったんですか?

平田:そうですね。大学までそこに住んでいたので、かなり乗せてもらいました。ヨットは徐々に大きくなったり、メンバーも増えたりしたんですが、オーナーの方々は大体20歳くらい上の方でした。

吉田:そうですか。じゃあちょっとお兄ちゃん的な存在ですね。

平田:そうですね。その仲間の人達がまた集まって、いまもあるんですが「佐伯帆走協会」というクラブを立ち上げたんです。それが高校3年生のときでした。私が18歳のときですから、そのオーナーの人達は40歳手前ぐらいですよね。子育て真っ盛りです。

吉田:そうですよね。

平田:小学校の子どもがいたりするわけです。

吉田:そういう子ども達の面倒をみたりされていたんですか?

平田:自分が大学生になってからも、ディンギーっていう小さなヨットで子どもたちを教えたりとか、そういうこともやってましたね。

吉田:そういうヨットに関係することで、いろんな大人の方々に関わったりだとか、そういう経験ができたっていうのはすごく大きいですよね。

平田:大きいですね。うちの子どもたちにもそれを味あわせてあげたいと思ってるし、実際味わってるんですけども、私のヨットの師匠をうちの息子は「海のおじいちゃん」と呼んでますから(笑)

吉田:そういう存在が身近にいるというのはいいですね。

平田:当然そのメンバーも、サラリーマンもいれば転勤族の方もいらっしゃるんで、つかず離れずで行ったり来たりするんですけどね。その人たちがまたUターンで帰ってきたりとか、私みたいに外に出たけどまた帰ってきたりとか。ということで、ものすごい付き合いが長いんですよ。子供や孫も知ってたり。

吉田:そういう人間関係の中でいろんなことを学べますよね、子どもたちは。

平田:そうですね。ある種のコミュニティですよね。

吉田:そういう地域のコミュニティ自体弱くなってる中で、ヨットを通じたりしながらそういう関係性を作れるのはいいことですね。

平田:なかなかいまはそういう関係性が作れませんよね。

吉田:あとで具体的にお伺いしますが、それがいまのヨットを通じた自然活動にも原体験としては通ずるものがあるんじゃないでしょうか?

平田:そうですね。いまも20歳上の先輩達がやってたことを実践していますね。

吉田:子どもたちはそういう大人たちに憧れたり、そういう姿に惚れたりするじゃないですか。

平田:ヨットのオーナーの一人に建築家がいたんです。独立して設計をしてる人ですね。先ほどの「海のおじいちゃん」と子どもたちが呼んでいる方です。

うちの父は県庁に勤めていたんですが、紺色のスーツで黒い靴はいて、朝7時過ぎに出てって、判をついたように帰ってくる人でした。一方で、その憧れのおじさんはちょっと格好いいスポーツカーに乗って、ネクタイはしてないし、何か自由な感じなんです。

吉田:カジュアルな感じですね。

平田:どっちに憧れるかわかりますよね。父は「お前公務員になれ」と言ってたんですけど、言うこと聞きませんよね。「誰がなるか!」って感じで。いま後悔してますけどね(笑)

その方の事務所に学生時代は入り浸りでした。学校の課題もその事務所で教えてもらったりしてました。卒業と同時にその人の事務所に私は入れるもんだと勝手に思っていました(笑) 公私ともにいつも一緒なわけですよ。休みもヨットで一緒だし、日々も一緒だし家に帰ることなんかないわけです。

吉田:親よりも長い時間過ごしたわけですね。

平田:親よりも飯食わせてもらっているかも(笑)  それで卒業するときに私が彼の事務所に入れると思ってたら、「いやいやお前と一緒に仕事をやりたいと思う。けど、俺しか知らないことになるから、2、3年ちょっと修行してこい」と。

吉田:それが2、3年だったんですね(笑)

平田:そうです。結局それが12、3年になっちゃったんですね(笑)

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広島で設計事務所を設立

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吉田:では、広島に戻るときもそこで勤めるつもりだったんですか?

平田:それがですね、やっぱり人間っていうのはエゴが出るというか。東京で務めた事務所が著名な建築家の事務所だったんです。「清家清」という日本の住宅建築の礎を作ったと言われるような人でした。住宅建築ではすごく有名な方だったんです。その方の事務所に10年以上いましたので、やっぱ天狗になってるわけですよね。

帰ってきたら、すぐにでも事務所を自分でやりたいと思うわけですね。でもまあ仕事なんか来ないですよね。いきなり10何年も空けておいて、付き合いもないところにポンと帰ってきたわけですから。

吉田:けど、その方に相談したりはしなかったんですか。

平田:もちろんしましたよ。ときどき仕事を手伝ったりはしてましたが、あくまでは違う事務所っていう感じでやっていました。一緒にやろうと言ってくれたんだけど、「僕は僕でやるから大丈夫」という感じ。生意気盛りだったわけです。

吉田:30代半ばで、ある程度キャリアを積む中で、そういう考えになってしまうのは致し方ないですよね。

平田:そうですね。自信はあったんですが、ところが仕事がない。人のつながりがないですからね。でもきっかけは、大学時代の同級生が広島へ帰ってデザイン事務所に勤めていて、大学卒業以来12年間会ってかったんですけど、突然電話があったんです。

吉田:それは平田さんが帰ったという情報を聞きつけて?

平田:やっぱり同級生同士の情報ネットワークですね。その彼は優秀な人だったんですよ。島根の公園の設計を彼が引き受けていて、その彼から「建物の設計をする人が足りないからお前やってくれ」と。12年間会わなかったのにですよ。

吉田:いや、それちょっと泣きそうになりますね。

平田:そのときはもう嬉しいばっかりでしたけど、何でそんなに頼んでくれたかというと、東京でやっていたときの仕事を東京にいる別の同級生が彼に伝えてくれてたんですよ。「あいつが広島に戻って仕事を探してるんだ」ってネットワークで話てしたんでしょうね。割と大きな島根県の温泉施設でしたが、その後もいくつか仕事をもらいまして、そうやって仕事をやっていくと顔が売れてきますよね。いくつかの事務所からオファーがかかるようになって、次第に直接お客さんから仕事が来るようになった感じですね。

吉田:軌道に乗るまでどれくらいかりましたか?

平田:5年くらいですね。

吉田:そんなにかかりましたか。

平田:自分の力で着実に仕事が入るようになるまではそれくらいですね。

吉田:けど、当然その間にお子さん生まれたりして、ある意味大変な状況の中で何とかっていう気持ちもあったんじゃないですか。子どもがいるから育てていかないといけないという責任感もあるでしょうし、たぶん相当なプレッシャーだったじゃないかと。

平田:下の子が生まれてまもなく、母が病気になりました。母が病気になったのをきっかけに、それまでは別々の家で住んでたわけですが、母がそういうことになったということで、緊急的に実家に帰って同居が始まったんです。本当は同居するつもりはなかったんですが。

吉田:同居するだけの家のスペース的にはあったんですね?

平田:広さはまぁまぁあって、事務所もその横でやってたんですけど、その1年後に今度は父親も病気になって。

吉田:そういうことも重なってたら、なおさら大変でしたね。

平田:いま思えば地獄のような日々でしたね。子どもがいたことで気持ち的な安らぎもあったので、子どもがいなかったらもっと地獄のような状況だったかもしれませんね。

吉田:肉体的には、子育てもしなきゃいけないし、親の介護もしなきゃいけないし、大変だったんじゃないですか。

そういう状況はどのくらい続いたんですか?

平田:そうですね同居して2年の間に両親を亡くした感じですね。うちの母はもう余命3カ月と言われて同居したんです。これまた涙が出る話なんですけど、父が母をどうしても家に連れて帰りたいと。で、父から「お前設計するのプロなんだろリフォームしろ」と言われ、母が帰れるように改築したんです。

私が小学5年生のときに建てた家だったので築30年ぐらいたってたのかな。バリアフリーじゃないわけですよね、当然。畳の部屋がありました。それを1カ月でリフォームしろって言うんですよ。普通だと2、3カ月かかるんですけども、それを1カ月で。これまた有難いことに大学の先輩の工務店さんに事情を言って、最低限必要なところを教えてもらってリフォームして、どうにかうちの母は2カ月ぐらい家で過ごすことができたんです。

吉田:戻ってきた段階で、もうやっぱり自分で身体動かすことはもうできないような状態だったんですか?

平田:最後のあたりはですね。ベッドは電動ベッドを入れないといけなかったので、その幅を取ったりですね。

吉田:構造的にスムーズにいくようなかたちでリフォームしたんですね。

平田:介護保険が始まって2、3年だったので、これが幸いしました。少しリフォームの勉強もしていたのもあって、そういうネットワークに助けられましたね。だから、それがきっかけで住宅の設計には影響が出てると思います。子育てしやすい家だとか、介護をしやすい家とかいうのはやはり体験が大きいですね。

吉田:ある意味迫られた状況の中で自分としての新たな一手を生み出していうことですよね。

平田:別に計画したわけではないんですが、結果的に(笑) 2年間の間に両親がバタバタっと亡くなったのは驚きでした。なので、実家が私の家になったわけです。当然残された私と家内と2人の子どもたちがそこで生活するわけですが、これが生活しやすいんですよ、バリアフリーだから。

例えば母のために広く作った風呂と、普通の倍ぐらいの脱衣スペースで、子供を拭いたりするのがバッチリなわけですよ。2人の子どもを私が風呂に入れるわけですね。まだ当時は保育園の子ども。扉は全部引き戸なんでとっても入れやすい。家内が台所から立ってるところからも脱衣スペースが見えるんです。

吉田:使いやすい動線なんですね。

平田:そうなんですよ。介護動線と家事動線がとれるようにしてるから、

吉田:それはある意味重なる部分があるんですね。

平田:もうほとんど重なりますね。意外に言われてないんですけどね。だから介護しやすい家は、子育てしやすい家なんですよ。

吉田:子どもだって走り回ってたらやっぱり躓いちゃったりもしますよね。ちょっとした段差とかいろいろ考えるとリスクはありますよね。

平田:子どもであれば、段差もだんだん乗り越えていくんですけど、高齢者の場合は逆にできなくなるのがちょっと悲しいですよね。

その両方体感できたっていうのは大きいかなと思います。介護がないとリフォームなかっただろうけども、リフォームして子育てできたっていうのがすごい仕事にプラスになったかなと思います。

吉田:その間は、お仕事も実家でやられてた感じなんですか?

平田:親がいた少しの間は実家でやってましたが、その後いまのこの事務所を建てました。14年くらい建ちますね。

吉田:ここも14年経ってるとは全然思えないくらい綺麗ですね。ここから自宅までどれくらいなんですか?

平田:そうですね2.5km、歩いて30分、車で6分半くらいでしょうか。

吉田:近いのはいいですよね。けど、自分で事務所を構えるというのは、当然いろいろ仕事抱えたりだとかという状況の中で、かなり忙しく働いてた時期もあったんじゃないですか?

平田:そうですね、最初の頃は非常にヘビーでしたね。

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ヨットを通じた子どもとの関係

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吉田:そういう中で子どもとの関係、時間の掛け方は工夫してたところはありますか?

平田:幸いに自営業なんで、スタッフも来てもらえるようになったんで、保育園の送り迎えは両方とも私がやっていました。

吉田:では、帰りもその時間に合わせて帰るわけですよね。

平田:近いので、夕食を食べてからまた仕事に戻ることもありましたね。妻は、一緒の仕事をしていますが、夕食を作ったりしないといけないので先に帰ります。割とそういうのは時間の融通が効きますし、スケジュールはこっちで立てることができるので、ご飯を一緒に食べないっていうことはあんまりなかったですね。

吉田:そういった意味ではお子さんとの時間は、確保できていたんですね。土日などの休みはどうされているんですか?

平田:クライアントが個人の方は土日に打ち合わせになりますが、そうでなければ積極的に休んで、ヨットの活動が主ですね。これが年間行事なんですがこんなにあるんですよ。

平田さんが所属するヨットクラブの年間スケジュール
平田さんが所属するヨットクラブの年間スケジュール

吉田:えっ、こんなにやってるんですか?

平田:当然土日に仕事が入ったりするので全部には出られないんですが、この青い字がクラブの行事で、緑色の行事がうちのヨットのものです。クラブには合計で10艇ほどのヨットがあります。

吉田:4泊5日クルージングとかやっているんですね。

平田:そうです。ゴールデンウィークは約2週間ですね。

吉田:ホントだ。11泊12日ってすごいですね。

平田:さすがにこの航海にずっと出られるようになったのはごく最近です。さすがに、子育てしていたときは半分の行程だけの参加でしたね。

吉田:広島に帰郷して、すぐにヨット活動も本格的に戻られたんですね。

平田:そうですね。土曜日は仕事の人もいるので行事は大体日曜日が多いんですが、出られるときは出るっていう感じです。地域の子どもたちを乗せたりする、ボランティアみたいな行事があるんですが、そういうのはもう年間行事で決まっています。

吉田:それは法人を別に作られてというかたちで?

平田:実は2年前にNPO法人は解散して、現在は任意団体で活動しているんですけど、10年間NPO法人として運営をしてたんです。私の乗ってる船は割と大きめの船で、12mあるんですが。

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吉田:本当だ大きい。

平田:ただこの船を1人で所有しているわけじゃなくって10人くらいでシェアをしているんです。関東の方だと大体1人で所有している場合が多いんですけど、こっちだとシェアして所有している人も多いですね。

関東の人達はレースの活動が中心で、オーナーがいて、あとはクルーという感じですね。上下関係があります。でも、我々のヨットクラブのメンバーは大概みなイーブンな感じです。

吉田:シェアをして所有できると、ハードルが少しは下がりますね。和気あいあいと乗る感じがあって楽しそうですね。

平田:よく喧嘩しないなってみんなに言われるんですけど、まぁ小さい頃から皆一緒ですからね。上は70代の海のおじいちゃんから下は30歳くらいまでいます。ちょっとした喧嘩はありますが、あまり気にもしていませんよ。

吉田:本当の海でクルーみんなで育ってきた感じですね。

平田:そうですね。いろんな世代の人達と一緒に1週間とか生活するわけですよ。例えばトカラ列島とか、秘境の地に連れていくわけですよ。トカラ列島は奄美大島と屋久島の間にありますが、ひとつの島に大体100人くらいしか住んでいないんです。島が10個あるのですが、この10個の島で鹿児島県鹿児島郡十島村(じっとうそん)を構成しています。一番南にある宝島という島に連れていくのですが、そうしたら地元のおばあちゃんと交流したり、島に1個しかないお店に行ったり。しかもその店は1時間しか開かないんですよ。1時間しかやってないので、その間にみんながそこに集まってくるわけですよ。

地元のおばあちゃんが乳母車を引いてやってきます。そこに我々が行くと異質ですよね。観光客もいませんから。でも、ものすごくフレンドリーに話してくれる。うちの息子なんか見たら、ものすごく話しかけてきてくれるんです。「あんたどっから来たんか」って。もちろん広島弁では言いませんが(笑)

で、面白いのが「名前は?」と聞いたら、同じ「平田」姓を名乗るんです。実は、島の人のほとんどが平田なんですよ。その昔の平家の落人なんです。こんなところにまで平家は、落ち延びてきたんですね。さらに南の奄美まで「平田」さんはいるそうですよ。

で、うちの息子にジュースおごってくれるわけですね。島に唯一の自動販売機で。有難くいただいて、うちの息子は持っていた宮島の花火大会の団扇をおばあちゃんにあげて、再会を約束しました。

吉田:それは子どもとしてはいい体験ですよね。

平田:「『平田』いうのはこの島からお前の祖先は来たんじゃろう」って言うわけですよ、お婆ちゃんが。まぁ逆なんですけどね(笑)

そういういろんな体験をするうちに、うちの息子が「船乗りになりたい」と言って。で、いま大崎上島にある広島商船高等専門学校に行ってるんですよ。

吉田:すごく影響を受けているんですね。では、いま実家を離れて?

平田:そうですね。寮生活です。息子はどうも中学校のときから船乗りになりたいと考えていたようです。

船は小さいときから好きで、船の模型を一緒に造ったりとかしてましたが、本当に職業として船乗りになりたいって知ったのは中学生のときですね。

吉田:それ聞いたときの父の思いはいかがでしたか?

平田:それは嬉しかったですね。実は、私は海のおじいちゃんという人に出会って建築家になったんですが、本当は息子の行ってる商船学校に行きたかったんですよ。中学校のとき。

吉田:そうですか。平田さん自身もそういう思いがあったんですね。

平田:ところが当時は、裸眼で視力が1.0ないとダメで。パイロットでもいまは関係ないんですが、当時は商船学校も入れなかったんです。機関科は0.6以上、航海科は1.0以上ないと行けなかったんですよ。それで諦めたというのもあって。

吉田:もしや建築家よりもそっちのほうがよかった?

平田:そっちがよかったですね(笑) いま息子は商船学校で勉強をしてますが、それとは別に、観音マリーナという広島のヨットの中心地があるんですが、毎週練習のために帰ってきてるんですよ。実は、学校のヨット部が休部になってしまって・・・

吉田:商船高校なのに、そんな状況なんですね。

平田:彼が1年生のときに指導者がいないという理由で休部になってしまったんです。そんなわけで、いまは観音マリーナに来ています。ここはここでね、コミュニティがあって、素晴らしいんですよ。時々手伝いに行ったりするんですけど、ホント素晴らしい。で、なんとなんと・・・

吉田:えっ、どうしたんですか?

平田:先月9月に広島県代表で国体に出てくれたんです。

吉田:すごい!

平田:そうです。少年男子、少年女子ってあるんですけど、それの420級っていうので出てくれて、堂々の26位で(笑) すいません県の費用使って。

吉田:いやいや出場するだけですごいですよ。

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後編へ続く

家族と地域をつなぐ住まいづくり 【シリーズ】地方に移住したパパたちを追って~広島編〈4〉後編~

労働・子育てジャーナリスト/グリーンパパプロジェクト代表

1977年7月東京生まれ。03年3月日大院修士課程修了(政治学修士)。労働専門誌の記者、父親支援団体代表を経て、16年3月NPO法人グリーンパパプロジェクトを設立。これまで内閣府「子ども・子育て会議」委員、厚労省「イクメンプロジェクト推進委員会」委員を歴任。現在、こども家庭庁「幼児期までのこどもの育ち部会」委員、「こどもの預かりサービスの在り方に関する専門委員会」委員、東京都「子供・子育て会議」委員などを務める。設立したNPOで放課後児童クラブを運営。3児のシングルファーザー。小中高のPTA会長を経験し、現在鴻巣市PTA連合会前会長(顧問)。著書「パパの働き方が社会を変える!」(労働調査会)。

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