ドイツの音楽首都・ライプツィヒに注目 ワーグナーファンとバッハ資料財団高野昭夫氏に街の魅力を聞いた
国内中部ザクセン州に属するライプツィヒは、バッハやメンデルスゾーンなど巨匠が活躍した音楽首都。この街は旧東ドイツ圏でベルリンに次ぐ第二規模の都市。近年は、スタートアップやアートに携わる若者に人気のある街として、大きな注目を集めている。
今、最も注目されるブームタウン「ライプツィヒ」
ライプツィヒは、音楽、歴史、学生の街として知られる。ザクセン州の州都はドレスデンだが、ライプツィヒは同州の経済産業を牽引している。ベルリンに勝るとも劣らない若者に人気が高いブームタウン「ライプツィヒ」は、東西ドイツの統一した1990年以降、大きな変貌を遂げている。
なかでもBMWやポルシェ高級車工場、アマゾン流通センター、DHLやドイツ鉄道シェンカー流通センターなど大企業がライプツィヒに拠点を置いたことで、この街は経済成長を遂げていった。ザクセン州の統計によれば、ライプツイヒの人口は、現在58万人ほど、2030年までには約10万人増えるという。
この6月に今年1回限りのリヒャルト・ワーグナーの歌劇「ニーベルンゲンの指輪」の4部作全編がライプツィヒで連続公演されると聞き、現地に向かった。近代化した街の様子も知りたかった。
この街で活躍するバッハ資料財団広報室長の高野昭夫さんにお目にかかるのも、今回の楽しみのひとつだった。
330 年の歴史あるオペラ・ライプツィヒで「ニーベルンゲンの指輪」全編を鑑賞
気がつけば、筆者は人生の半分以上をドイツで過ごしている。日常生活で目にする場面は、もはや当たり前のシーンとなり、旅人のように新鮮な感激も少なくなってきた。だが、ドイツで今も感心するのは、音楽や芸術文化が市民の生活に浸透していることだ。
オペラ鑑賞もその一つだろう。プライベート時間をオペラ会場で過ごすことは特別なことでない。何も着飾る必要もない。そもそもオペラ会場は、市民の音楽劇場として誰でも気軽に入場しやすい土壌もあった。
公演会場のオペラ・ライプツィヒでも、観客は老若男女様々。各自が自分のライフスタイルにあった楽しみ方をしていた。
今年、ライプツィヒでの指輪(以下指輪全編)公演は、6月下旬から7月はじめの1回限りだった。そのためだろうか、オペラ会場は、英国、米国、中国、韓国など世界中からの観客で溢れかえっていた。
きらびやかに着飾ったカップルやT-シャツとジーンズでオペラを楽しむ若者など、観客を観察するのも楽しかった。そういえば、着物や袴姿の日本人も見かけた。そして観客だけでなく、オペラ出演者も国際色豊かだった。
指輪全編は、毎回17時から始まった。序夜「ラインの黄金」と第1日「ワルキューレ」と二晩続き、その間一日休みを置き、第2日「ジークフリート」、第3日「神々の黄金」と連続で公演された。
ちなみに連続公演と聞いて、多くの人には理解しにくいかもしれない。指輪全編の公演時間は計15時間以上にも及ぶ。そのため、継続の公演は、オーケストラや出演者の負担が大きいことや、集客も難しいこともあり、ここドイツでも頻繁に公演されない。しかし、1部だけの単独公演は、各地でよく開催されている。
各公演時間は序夜2時間45分、休憩なし、第1日と第2日は約5時間(休憩2回)、第3 日約5時間45分(休憩2回)。正直言って、長時間見続ける(座り続ける)ことができるかどうか心配だった。だが、休憩時間は30分ほどあり、その時間に外に出て新鮮な空気を吸いリフレッシュ。そして水分補給や軽食で小腹を満たした後は、また舞台に吸い込まれるように集中できた。
舞台演出も素晴らしかった。演奏はゲヴァンドハウスオーケストラ。音楽監督はウルフ・シルマー。オペラ「ニーベルンゲンの指輪」の内容については、こちらを参考にしていただきたい。
出演者で特に印象深かったのは序夜のヴォータンToumas Pursio(バス・フィンランド出身《以下国名のみ表記》)、アルべリヒJuergen Linn(バスバリトン・ドイツ)の力強い歌声だった。
第1日では、バイロイト祝祭音楽祭にもよく出演しているというシーグムンドSimon ONeill(テノール・ニュージーランド)、ブリュンヒルデIrene Theorin(ソプラノ・スウェーデン。第2日も同じ役で歌った)の歌声に魅せられた。
第2日は、若いジークフリートChristian Franz(テノール・ドイツ)、ファフナーRuni Brattaberg(バス・フィンランド)が素晴らしかった。
最終第3日は、ギュンターToumas Pursio(バス・フィンランド・序夜ヴォータンを演じた)、ハーゲンRuni Brattaberg(バス・フィンランド・第2日ファフナーを演じた)のエネルギッシュな歌声がいつまでも耳に残った。
世界の音楽ファンが集まる街ライプツィヒ
指輪全編鑑賞のためにこの街へ出向いた客がとても多かったことにも驚いた。4晩続けてオペラ会場にいると、顔なじみも出来、多くの人と雑談する機会があった。
毎夏、ワーグナー音楽祭の開催されるバイロイトにも足しげく通っているという70代の女性は、ミュンヘンからライプツィヒへ特急電車で片道5時間半かけて来たという。彼女とはオペラ会場でよく顔を合わせたので、ワーグナーオペラについて意見を交換した。
ドイツ南部の街フライブルクから来た50代後半のカップルはご主人がワーグナーファンという。実は、後から知ったことだが、このカップルとは宿泊したホテルが同じで、朝食時によく顔を合わせていた。
旅の帰路、筆者はフランクフルト中央駅で乗り換えのためホームで待っていると、偶然このカップルが目の前に現れた。二人は「指輪」を観るためにライプツィヒに行ったといい、「2018年にまた全編公演があるので、今から楽しみ。帰宅したら、早速チケットを予約するつもり」と教えてくれた。さすが、ファンの行動力はすごいと思った。
オペラ・ライプツィヒ会場から歩いて数分の場所にあるロバートとクララシューマンが暮らしたシューマン旧宅で、筆者はロンドンから来たカップルと出会った。
「ワーグナーファンの夫とライプツィヒで数日過ごした後、ドレスデンからプラハへと音楽の旅をするの」と、うれしそうにブラジル人の妻は語った。
また米国マサチューセッツ州から来た高齢のカップルも音楽好きでライプツィヒに来たと言う。 「この街は、音楽ファンにとって、パラダイス」と、連日音楽家の足跡を辿っているそうだ。
英国から来たという音楽ファンのグループとは何度もオペラ会場で出くわした。またメンデルスゾーンハウスの日曜コンサートでも遭遇した。このグループを率いる男性に聞くと、音楽ファンを引き連れて、定期的にライプツィヒを訪れているそうで、毎回盛況だと明かした。
ライプツィヒ滞在の最終日、筆者はメンデルスゾーンハウスで開催された音楽会に行った。毎週日曜日の11時から開かれるこの音楽会は、その昔、シューマン夫妻やワーグナーらも訪れたという。
開演まで少し時間があったので、となりに座った二人の青年と会話した。
英国から8年前来独したという青年は、「オペラ・ライプツィヒのダンサーです。小さいときからピアノを弾いていた。ダンスに本腰を入れたのは16歳の時。ちょっと遅いスタートだったけど、実は12歳の時から踊っていた。ピアノとダンス、どちらをとるか迷った末、ダンサーになろうと決めた。今、足の怪我で踊れない。でもドイツは労動環境が整っていて大変働きやすい」と、こちらが質問した訳でもないのに、色々話してくれた。
中国人の青年はバリトン歌手を目指している大学生。ドイツに住んで約7年だという。「最初はリューベック大学にいたけど、声楽の教授がワイマーに移ることになったので、僕もワイマーに引越した。ワイマーは小さな街だけど、音楽を学ぶにはとってもいい場所。ドイツは大学生にとって、過ごしやすい国。授業料はほとんどないし、東部ドイツは物価も安いので生活しやすい。残り2年、大学生活を満喫したい」と、流暢なドイツ語で語った。
街は見違えるように明るくなった
音楽首都ライプッイヒを訪問するからには、バッハ資料財団広報室長の高野昭夫さん(56)に是非会いたいと思った。高野さんの半生については、すでに多くのメディアで紹介されている。
実は、オペラ・ライプツィヒを検索しているうちに、遅ればせながら、高野さんは2014年より同オペラの広報にも関わっていらっしゃることを知った。
まずライプツィヒの印象を聞くと、高野さんはこう答えてくれた。
「この街にやってきたのは1991年1月。東西ドイツ統一から3ヶ月後でした。旧東ドイツの色が街のあちこちに見られ、ソ連軍が母国へ戻る姿も目にしたくらい。まるで映画の世界にいるようでした。
当時、この街の景観は、色でいうなら白黒。石炭暖房の煙がいたるところに蔓延し、鼻をつく独特なにおいがしました。それでも憧れのバッハの地にやってきたという感動で胸は一杯でした。それに引き換え、今は色鮮やかで見違えるようなモダンな街となりました。過去と現在が見事に共存するライプツィヒは、大学生や音楽関係、アートやデザインを学ぶ若者も多く、活気溢れる大都会です」
出来ないから、出来ることもある
ここで、高野さんはご自身の人生も振り返り語った。
「ライプツィヒに住んでもう27年。こんなに過ごしやすい街はありません。多くの人に助けられて、今の自分がここにいます。オフィス前のトーマス教会から少年合唱団の歌声が聞こえてくれば、スタッフとして聞きに行くことが出来ます。バッハの専門家や研究員と席を共にして仕事ができるなんて、素晴らしいことじゃないですか。
英語もドイツ語も出来ない。音符も読めない、楽器の演奏も出来ない、音楽業界にも縁がないと、ないないづくしでした。でも出来ないから、できることもあるのだと思います。どんなに小さなことでもいい、自分のできることからはじめれば、いつか実は結ぶはずです。
私もただただバッハに憧れて、ライプツィヒにやって来ました。トーマス教会で偶然牧師さんに出会い、安い宿はないかと訪ねたら、牧師さんはここにありますよと教会施設を提供してくれた。情熱をもって行動すれば、きっと何かつかめるはずです」と、高野さんは振り返る。
ライプツィヒに骨を埋めたい
現在、高野さんは、バッハ資料財団広報室長の他、オペラ・ライプツィヒ、ライプツィヒ・ゲヴァント管弦楽団、ベルリンのRIAS室内合唱団、オペラ・ライプツィヒ、ボンのベートーベン音楽祭などの広報、ザクセン・バロック・オーケストラのアドバイザーやリューベックのプクステフーデ音楽祭の組織メンバーも兼任する。
身体がいくつあっても足りませんねと問いかけると、「ドイツ国内での活動ですので、問題ありません」と、高野さん。
「バッハはいつも私と一緒にいてくれた。とてつもなく遠い存在でしたが、今、やっとバッハに手が届いたのかなと思います。
ライプツィヒは、僕にとって第二の故郷。うつ病で生活保護を受け、先が見えなかったとき、命を絶つことを考えていた。おにぎり一個買うのにも、コンビニより安いスーパーで入手した。お腹を満たすためにお湯で水増ししたおにぎりスープを食べていた。そんな時、ライプツィヒから牧師さんやかっての仲間たちが航空券を送ってくれたんです。ライプツィヒで待っていると。
バッハは私の命を救ったのです。そんなバッハの総本山のライプツィヒに骨を埋めたい」と、遠くを見据えて語られた高野さんの横顔が、とても印象的だった。
この街に10年以上住む日本人女性は、ライプツィヒはまるでするめのようだと言った。かめばかむほど味の出るするめを例えて、知れば知るほど奥が深く味がある街、それがライプツィヒだという。確かにそうだと思った。またここに来よう。
写真撮影に関し、特別な許可が必要なことからドイツ観光協会にご協力頂いた。