納税する義務から寄付する権利へ
公共的な機能を維持する費用は、税金によって賄うだけではなく、税制優遇措置を拡大させることで寄付を奨励することによっても調達できます。国民間の様々な差異にかかわらず、全ての国民に等しく遍く提供されるべきものについては、税金によるのが適当でしょうが、逆に国民間の様々な差異が尊重されるべきものについては、寄付によるほうが適当ではないでしょうか。
最低生活保障としての公的年金
厚生年金、即ち被用者の公的年金は、保険料負担と給付額が報酬比例になっているとはいえ、格差を小さくして、就労期間終了後の被用者全体に最低生活保障を提供するものです。つまり、厚生年金は、制度全体の収支を均衡させながら、制度の構成員全体に広く遍く給付を行う所得の再配分の仕組み、即ち相互扶助の制度なのであって、各構成員の収支は当然に不均衡になるとしても、それは不公平ではなくて、制度全体の公共性のもとで公正なものと考えられているのです。
公正性を維持するためには、個人間の不均衡を適正な範囲に収める必要がありますから、所得の高い人には保険料負担に上限が画されていて、その効果として給付にも上限が画される、つまり、給付水準が報酬比例にはならずに最低生活保障に留められているわけです。
そして、この最低水準を基準にすることは、税金と同様の納付義務のある社会保険料を財源とした制度として、また受給資格のある国民全員に適用される制度として、当然のことなのです。つまり、最低水準だからこそ全員に適用され得る、逆に、全員に適用可能な水準が最低水準なのだということです。
豊かな老後は自助努力
そして、最低を超える水準は民間の自治に任せるべきことは、既に金融庁の老後2000万円報告書が明らかにしていました。その論旨は、老後生活の豊かさは一人一人が自分で思い描くことで、そこに政府が介入する余地はなく、故に、豊かさを実現するための原資は各人の自助努力によって賄われるべきだとするものです。これについて、野党は責任を国民に押しつけるものとして政治問題化を狙ったわけですが、その思惑は見事に外れたのですから、正当な主張として国民の支持を得ているということでしょう。
しかし、政府には豊かな老後生活の実現を支援する義務はあります。老後2000万円報告書の本来の目的は、国民の豊かな老後生活を実現するために、金融行政として何ができるか、金融庁として何をなすべきかという課題の整理にあったのであり、いうまでもなく、そこで金融庁のなすべき最重点施策として掲げられたのが「つみたてNISA」の税制優遇措置の恒久化だったのです。つまり、老後生活資金形成における自助努力については、政府は税制優遇措置を講じることで、その責任を果たすということです。
行政の公正性
年金に限らず他の分野でも、最低水準を税金等の納付義務のあるもので賄い、それを超えた水準は国民の自治に委ねるというのが一般的な行政手法です。
例えば、健康保険は、最低限必要な医療については全て適用対象になりますが、それを超える高額な高度医療については適用されませんし、公立の義務教育は無償で税金の負担でなされますが、私学や高等教育は原則として有償です。しかし、健康保険が適用されない医療費も納税に際しては控除対象になり、また、私学や高等教育には一定の政府補助金が交付されています。
こうして、一般的な行政手法として、国民に遍く提供されるべきものについては、最低水準を税金等の納付義務のあるもので賄い、それを超えた水準は国民の自治に委ねて、税制の優遇措置を講じる、あるいは補助金の制度を設けるというのは、社会的な公正性を維持するための工夫だと考えられます。
政府の役割
国家とは何か、これは難しい問題ですが、そこに国民を支配する価値的なもの、実態的なものを認めることについては、危険な逸脱を生じかねないものとして、慎重でなければならず、むしろ、国民が支配するものとして、国民の共通利益に貢献するものとして、国民間の相互扶助組織として、経済取引に準じてとらえるほうが無難ですから、税金や社会保険料の納付義務に対しては、役務の提供を受ける権利を対抗させていいでしょう。
そして、この役務の提供においては、全ての国民を等しく扱うことが求められますから、全国民に共通のものとして、最低限の水準に留まらざるを得ず、むしろ、最低限だからこそ、公正公平性が保たれていると考えるほかありません。そして、最低限を超える水準については、国民の多様性が認められるべきですから、国民の自治自律を前提にして、政策的な支援を行うにしても、税制優遇措置や補助金等の手段が講じられるのです。
悪平等と公正性
さて、どこに政府の保障すべき最低水準を定めるかは難しい問題です。例えば、健康保険については、現行の最低水準を引き下げて、民間の保険会社の提供する医療保険に代替させ、支払保険料に税制優遇措置を設ける方法もあります。そして、危険に応じた保険料の算定方式を導入すれば、健康管理を徹底すればするほど負担が軽減しますから、総医療費の削減に対する利益誘因が生じるわけで、より優れた制度設計になるとも考えられます。
実は、ここには極めて高度な論点が潜んでいます。つまり、全ての国民を等しく扱うことは、公正公平のように見えても、自助努力する人も、しない人も、等しく扱うという悪平等であり得るのであって、別の見地から公正公平性をとらえて、国民の自主自律、自助努力を奨励するような制度設計にも充分な顧慮が払われなければなりません。別のいい方をすれば、同じ権利を主張するにしても、医療を受ける権利という受動的なものと、自分の健康を自分で管理する権利という能動的なものとがあり得るのです。
日米の文化の差
アメリカにおいては、おそらくは、建国以来の伝統のもとで、自分の安全を守る権利、自分の健康を維持する権利など、社会全体の仕組みにおいて、個人の自主自律と自助努力が基本にされていて、それが例えば医療保険や銃規制をめぐる議論に濃厚に反映しているようです。
それに対して、日本は、戦前の国家体制に対する反省と戦後の経済復興政策によって、徹底して福祉国家の道を歩んできた経緯があって、アメリカとは対極的に、税金や社会保険料等の徴収を通じた所得の再配分機能が大きくなっています。しかし、超成熟による深刻な転機を迎えるなかで、老後2000万円報告書の論調にみられるように、少しずつ社会構造の見直しが始まっているのかもしれません。だとすると、その先には、寄付に対する税制優遇措置の大胆な拡大もあり得るでしょう。
納税を通じた再配分では、納税者は使途を特定できませんが、寄付を通じた再配分では、逆に使途を特定するのが普通です。納税は義務であって、権利ではありませんが、寄付は自分が自由に寄付先を選ぶものですから、義務ではなく、むしろ権利です。そこで、国民の自主自律を徹底させるのならば、納税から税制優遇措置の拡大によって寄付を促す方向への転換が考えられるわけです。
事実、周知のように、アメリカでは、大学の運営を始め、多くの社会的事業分野において、寄付が大きな役割を演じています。特に、多様な価値観を許容しなければならない文化的な領域においては、政府は補助先を選択できないのに対して、寄付では、寄付者の多様な見識により、多様なものが寄付対象になり得るという利点があり、また、寄付を受ける事業者の利益誘因として、寄付者の支持を集めるために事業運営の質を高める努力を促す点も見逃せません。
財団の資産運用
寄付を財源とした事業の基本は、寄付金を事業支出に充当するのではなく、寄付金で財団を作り、その運用収益を費消することです。故に、税制優遇措置としては、寄付者にとって寄付金が損金算入できることだけではなくて、財団の運用収益を非課税にすることも必要なわけです。
このとき、運用収益が不安定で予測のつかないものでは困ります。実は、長期投資という名のもとで大きな誤解があるようですが、資産運用には運用収益を利用する事業目的が明確にあって、その目的を実現することが資産運用なのですから、事業遂行に必要な原資が予測可能なものとして生成されるべきことは、資産運用の基本中の基本なのであって、この基本の徹底が投資技法の高度化をもたらすのです。
実際、アメリカでは、高度な資産運用能力を有することで知られている財団が多くあります。金融庁は長らく資産運用の高度化を重点施策に掲げていますが、税制改正による財団の育成も検討したらどうなのでしょうか。