戦争により計画を狂わされた天才が起こした、光クラブ事件
世の中には我々の理解の範疇の外にいる天才がしばしば存在します。
しかしそんな天才の中には、世の中を騒がせる事件を起こす人も稀にいます。
この記事では悲運の天才が起こした事件、光クラブ事件について紹介していきます。
機械のように動く天才、山崎晃嗣
山崎晃嗣(やまざきあきつぐ)は、医師で木更津市市長の父と渋沢家の血を引く母の五男として生まれました。
山崎は幼いころから神童として名を馳せており、小学校卒業後は地元の名門として知られている旧制木更津中学校(現在の千葉県立木更津高等学校)に進学します。
その後山崎は当時の日本で一番入学することの難しかった旧制第一高等学校(現在の東京大学教養学部)に進学し、そこで勉学に励みました。
山崎は一高での生活を通して法律によって一切を割り切って生活していこうとする「数量刑法学」という体系を作ることを決意し、大学教授になるために東京帝国大学法学部(現在の東京大学法学部)に進学することを目指したのです。
山崎は1日16時間とも言われている法律の勉強を自分に課し、その甲斐あって希望通り1942年に東京帝国大学法学部に進学したのです。
しかし時代は戦争真っただ中ということもあり、山崎は学徒出陣で陸軍に幹部候補生として入隊します。
山崎は主計少尉として北海道旭川市にて勤務し、そこで終戦を迎えました。
しかし戦後すぐに上官の命令で食糧隠匿に関与したことが問題になり、密告により横領罪で有罪判決を受けたのです。
山崎は尋問で虐待を受け、上官の裏切りも経験しました。
この事件を通じて、陸軍の体質に深く失望した彼は、「人間はもともと邪悪」と考えるようになり、精緻なスケジュール管理に取り憑かれるように生きるようになったのです。
具体的には24時間を睡眠や食事といった「用務」、法律の勉強の「第一類」、受験勉強の「第二類」、新聞を読むことや友人との会話などといった「浪費」に分けて明確に書くようになり、合理的な行動を自分に課すようになったのです。
東大復学後、山崎は戦争によって失われていた時間を取り戻すかの勢いで勉強に励みました。
具体的にはすべての科目で優を取ることを目指すというものであり、教授との相性などの問題で結局は叶わなかったものの、後述する起業の後も決して学業の手を緩めることはなく死の直前まで学業とビジネスを両立させ続けました。
山崎の栄光と転落
1948年、山崎は友人と共に貸金業「光クラブ」を銀座で設立します。
画期的な広告で資金を集め、高利で貸し付けるビジネスモデルは成功し、開業わずか4か月で株式会社化しました。
1000万円を集め、社員30人を擁する企業に成長したのです。光クラブのビジネスモデルは高金利での貸金業であり、言ってしまえば闇金です。
しかし当時の銀行は貸し渋りを行っていたこともあり、資金調達に苦しむ中小企業が多く利用していました。
また当時の銀行が年利1.83%で配当を行っていたのに対し、光クラブは18%で配当を行っており、多くの出資者が光クラブに資金を出資しました。
また東大生が行う金融業ということもあり、闇金が持っていたダークなイメージが薄れていたのも、拡大の要因であるといえます。
しかしそんなイメージとは裏腹に、光クラブは暴力団を使って取り立てを行うなど他の闇金以上にダークな経営を行っていました。
そのこともあって政府は光クラブを問題視しており、やがて山崎は物価統制令違反で逮捕されます。
それによりにカリクラブは出資者の信用を急速に失い、業績が急落したのです。
3600万円の負債を抱え、山崎は株の空売りで資金調達を試みるものの失敗に終わります。
最終的に山崎は青酸カリで服毒自殺を遂げ、27年の短い生涯に幕を閉じました。
辞世の句は「貸借法 すべて清算借り 自殺」であり、青酸カリと清算借りをかけていることが窺えます。
なお山崎の死後、空売りした株が大暴落し、多額の利益を生んだものの、彼はその恩恵を受けることはありませんでした。