福沢諭吉曰く、天気情報は日本人の小胆近視の悪弊をなくせる
初めて天気情報が新聞に
今から124年前の明治16年(1883年)4月4日、慶應義塾の日刊紙「時事新報」は、新聞として初めて天気情報を掲載しました。
当時は、まだ天気予報が発表されていない時代で、全国の天気実況だけの掲載でした。
時事新報の主宰者である福沢諭吉は、「この天気実況の掲載により米相場の抜けがけはなくなるし、航海にも役立つ。だいいち、日本国を縮小してこれを一呑みにする天気実況の掲載により、日本人の小胆近視という悪い癖がなくなるだろう。」と述べています。
天気の情報提供は、単なる情報提供が始まったということだけでなく、天気の情報提供が始まったことによって日本人の考え方までが変わるという見方で、その後も、天気に関する情報提供に深い関心を持っています。
天気予報の初掲載の新聞も時事新報
中央気象台で天気予報が始まったのは、明治17年6月1日ですが、前年から作製されていた天気図が1日3回(6時、14時、21時)であったことから、天気予報も1日3回の発表で、8時間先の予報でした。
各測候所はこれを門前に掲示し、若干の府県においては、警察署、派出所又は停車場にも掲示したり、予報を示す旗を高く掲げたりしていましたが、予報を知ることができる人は、ごく一部で、しかも、伝達の時間を考えると、有効時間がほとんどない予報でした。
官報では、有効期間が過ぎた天気予報を掲載していましたが、国が行ったことを記録しておくという役目のためです。それによって多くの人が天気予報を利用することはできません。
当時の予報の精度は非常に悪い予報でしたが、それでも天気予報を聞いた人が使えないという、予報の精度以前の問題がありました。
しかし、明治21年4月から、経費節減のために天気図は1日1回、21時に作製されることになり、天気予報は、8時間予報から24時間予報に延長されます。
そして、明治21年4月から24時間先までの天気予報が発表されるようになり、ただちに時事新報が率先して掲載しています。天気予報を多くの人が利用する時代になったのです。
時事新報の天気予報は世間の大歓迎を受け、5月より報知、6月より毎日、朝野、読売、日日の各新聞が続々と天気予報を掲載するようになっています。
しかし、これは東京で発行されている新聞についての話です。
地方で発行の新聞では、21時に発表の天気予報では、これを印刷する時間的余裕はありませんでした。
このため、中央気象台では、明治24年6月から天気図作製時刻を14時に改め、天気予報も当日18時から翌日の18時までの24時間予報に切り替えています。
天気予報の発表時刻が、地方で発行の新聞の締めきり時刻にも間に合い、全国の新聞で天気予報の掲載が始まっています。
福澤諭吉の気象界への貢献
天気予報が新聞に掲載されるようになった経緯については、福沢諭吉が死去した日の時事新報の追悼記事の中にあります。
時事新報の予報に適応する絵
時事新報では、明治26年1月より、予報文の他に、予報に適したイラストを付しています。
このイラストは絵は、5種類あり、それに付記されている文章は、時事新報に謝意を表したいとして、中央気象台の粋人が書き入れたものです (「気象百年史(1975、気象庁)」による)。
曇りの時が晴耕雨読で福澤諭吉先生が一番考えるときとか、雨のときは予報を信じて用意した雨具を使うなどの記述の他、大雪のときは寒さを凌ぐために酒を呑むという記述があります。また、雨が止んで晴れた場合、単に晴れている場合と違うということから、難しい晴れの字を使いますが、この時は東に虹がでたときは傘は不要品、だが、西に虹がでたときは傘を手放してはいけないという有効な天気俚諺があります。さらに、晴れているときに傘を持つのは日焼けを嫌う美人という記述があります。
時事新報の社説
時事新報は、その後も気象事業について大きな役割をしています。
福澤諭吉死去の翌年の明治35年7月29日の社説「天気予報と警報」では、天気予報は1日2回発表すること、及び暴風警報は発表の都度全国に通報することを要望しています。
そして、中央気象台はこの提案を受け入れ、天気予報と警報の発表の仕方を変更しています。
天気予報は、明治36年1月1日より「地方天気予報ハ毎日午前11時前後ニ発シ、必要ノ場合ニハ午後6時前後更ニ追報ヲ発スルモノトス」と改められています。
そして、暴風警報の全国への通報についても、明治36年1月1日より警報発表の際は全国に通報されています。
慶應義塾の創設者である福沢諭吉は、専修大学、一橋大学、神戸商業高校、北里研究所、東京大学医科学研究所の創設にも尽力しただけでなく、気象業務の発展にも尽力したのです。