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【吉田松陰】が主宰した松下村塾は松陰没後にはどうなったのか?

歴ブロ歴史の探求者

山口県萩市の松陰神社境内に今も現存する松下村塾。

吉田松陰が主宰したわずかの期間に、久坂玄瑞や吉田稔麿、高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允)、山縣有朋、伊藤博文など明治維新の原動力となった人材を育てたことから松下村塾といえば吉田松陰のイメージがついていると思います。

実を言うと吉田松陰が松下村塾を創設したわけではありません。もとは玉木文之進という人物が創設した私塾が始まりです。

今回はそんな松下村塾のその後までを紹介します。

玉木文之進と吉田松陰の関係

簡単に言えば「叔父と甥」の関係です。

松陰は長州の下級藩士・杉百合之助の次男として誕生(幼名は虎之助ですが、以後松陰で統一)。

松陰が生まれた頃の父は27歳で、24歳の大助と21歳の文之進というまだ独身の弟と同居していました。この文之進が後に松下村塾を開いた人物です。

「吉田松陰」と「松下村塾」の誕生

長兄の大助は長州藩の藩主に講義をしたり明倫館(藩の学校)で講義したりする役目をもつ『吉田家』の養子となっており、松陰誕生の2年後に結婚して杉家とそう遠くない場所で独立しました。

※吉田家は大石内蔵助が学んだことで知られる山鹿流兵法を教えていました

その大助が子を持たずに若くして亡くなったため、幼い松陰が杉家在住のまま吉田家の養子となり後継となっています。

一方の文之進も10歳の時に杉家より格上の玉木家の養子に入っています。まだ若かったため、養子になったと言っても実家で暮らし続けていました。松陰は寺子屋や手習場に通わずに、文之進や父に教えを受けたといいます。

文之進の指導は時に体罰も伴う厳しい指導でしたが、やがて役目を得て登城する機会が増え、結婚もすると松陰との時間は少なくなっていきました。

ところが、文之進は部下の不祥事の責任を取り職を失うと、松陰や松陰の兄への指導を開始。その指導が評判になると近所の少年たちも参加しはじめ、学び舎の体裁が整いはじめました。こうして文之進たちの地元、松本村から名前を取った『松下村塾』を誕生させています。

吉田松陰、松下村塾を主宰する

叔父の教育もあって長州の藩主にも認められるほどの秀才ぶりを発揮した松陰は19歳で独立し、22歳まで明倫館で師範を務める一方で、アヘン戦争などから世界情勢と日本の行く末を危惧するようになりました。

そして、最新の兵学を学ぶために全国各地に遊学、海岸防備の視察を行います。

「思い立ったらすぐ行動!」の松陰は、その過程でペリーの艦隊を視察。密航を画策するという過激な行動を起こし投獄されますが、獄中、囚人たちに向けた講義を開始して評判になりました。

そうした評判もあって収監期間を終えた後は文之進が主催していた松下村塾の名を受け継ぎ、杉家の庭先の小屋から教育活動を本格的に再開。明治維新の原動力となる有能な若者たちが集まったのです。

安政の大獄

結局、松陰が門弟の指導にあたったのはわずか2年10ヵ月でした。

ペリー来航以降、日本国内の意見は真っ二つになっており、松陰も幕府による日米修好通商条約の締結に激怒し批判していました。

時の大老・井伊直弼は安政の大獄でそうした幕府への反対勢力を弾圧し多くが捕縛され、死罪や酷刑、あるいは謹慎を言い渡されました。

吉田松陰も投獄され、最終的に斬罪とされたのです。

さらに指導者の死だけではなく、塾生たちが地元を離れ尊王攘夷運動や討幕運動に参加。一時的に松下村塾は閉鎖状態になりました。

松下村塾の再開

大政奉還が行われた年の前年から塾生の1人が松下村塾を再開させますが、明治政府の高官となった別の塾生からの求めに応じ再び閉鎖。

その後、隠居した玉木文之進が再開しますが、明治政府によってかつての武士が特権を奪われ士族反乱を起こすようになると、山口県(旧長州)でも萩の乱が発生します。この萩の乱の首謀者が松下村塾出身の前原一誠です。

彼は明治維新の十傑に数えられ参議となっていましたが、上層部と兵制改革で意見が合わず対立。帰郷して反乱を起こしたのです。

この反乱に文之進の養子や塾生の一部が参加し、鎮圧されると責任を感じた文之進は切腹。塾はまたしても途絶しますが、数年後に実の弟と共に文之進から学んだ松陰の兄・杉民治が塾を再開しました。

その後、10数年松下村塾で教育に従事しますが、老年になった杉民治は塾を閉鎖。

こうして、松下村塾は完全に幕を閉じる事となりました。

歴史の探求者

歴史好きが講じて歴史ブログを運営して約10年。暗記教科であまり好きでないと言う人も少なくないはずです。楽しく分かりやすく歴史を紹介していければと思います。歴史好きはもちろんあまり好きではない人も楽しめるような内容をお届けします。

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