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「生前退位」は「歴史の書物にない表現」 皇后さま、違和感表明 NHKの反応は…

楊井人文弁護士
皇后さまのお誕生日の談話を伝えるNHKニュース(2016年10月20日)

皇后さまは10月20日、お誕生日の談話を宮内庁を通じて発表した。その中で、7月中旬に「天皇陛下が生前退位の意向を示された」と一斉に報道されたことについて、「新聞の一面に『生前退位』という大きな活字を見た時の衝撃は大きなものでした。それまで私は、歴史の書物の中でもこうした表現に接したことが一度もなかったので、一瞬驚きと共に痛みを覚えたのかもしれません。」と述べ、表現に違和感があったことを明らかにした。天皇陛下が意向を関係者に示されたときに実際に使った言葉は「譲位」だったことが明らかになっている。しかし、現在も各メディアは天皇陛下の意向を「生前退位」という表現で報道しており、見直しの動きは出ていない。(続報あり=産経「譲位」に用語変更 朝日も「生前退位」不使用 他社は表記の混乱も

スクープを伝える「NHKニュース7」(2016年7月13日)
スクープを伝える「NHKニュース7」(2016年7月13日)

NHKは7月13日午後7時のニュースで、「独自 天皇陛下『生前退位』の意向示される」と字幕をつけて第一報を流した。この後、主要各紙や放送各局も一斉に後追い報道したが、全てのメディアが「生前退位」という表現を使っていた。

ただ、「生前退位」という表現には、当初から疑問の声が一部の識者などから出ていた。宮内庁関係者は「天皇陛下は生前退位という言葉を使われたことはない」と指摘していたとされる。6年前に天皇陛下からご意向を聞いていたという東京大学名誉教授の三谷太一郎氏は、天皇陛下が「譲位」という言葉を使われたと証言している

日本報道検証機構は、皇后さまの談話を受け、受け止めや「生前退位」という表現が適切だったかどうかについて、NHKをはじめ主要新聞各社に質問した。NHK広報部からは「国会の答弁等でも『生前退位』『退位』という言葉が使われており、視聴者に意味が伝わりやすいよう、この表現を使っています。ニュースの文脈に応じて、『譲位』という言葉も含め、適宜使い分けています」との回答があった。今後も使い続ける方針かどうかも質問したが、明言しなかった(新聞各社の回答が出そろい次第、追記予定)。

【追記】

日本報道検証機構は、在京紙6社に皇后さまの「生前退位」報道についての言及に対する受け止め、「生前退位」という言葉を使った理由、今後も「生前退位」という用語を用いる方針に変わりはないのかの3点を質問。毎日新聞社長室広報からは21日、「天皇陛下が存命中に位を譲ることは明治以降の歴史では例がないことから、意味をより分かりやすくするために『生前退位』との表現を使っています。1984年の国会議論では、『生前の退位』という言葉が使われたこともあります。また、『退位』という用語は、政府の今回の有識者会議資料でも出てきます」との回答があった。朝日新聞社広報部からは28日、「記事の内容に応じて、それにふさわしい言葉を使ってまいります」との回答があった。読売、産経、日経、東京の各社からは返答がなかった。ただ、産経は27日、用語を原則「譲位」とする方針に転換し、翌日紙面上で明らかにした。(関連=産経「譲位」に用語変更 朝日も「生前退位」不使用 他社は表記の混乱も

<視点>「生前退位」は「真意」を反映した表現だったか 〜スクープ記者の寄稿を読み解く〜

7月中旬以降、この国のメディア空間には「生前退位」という四字熟語が連日のように駆け巡ってきた。当初からこの表現に違和感をもった人もいたと思う。…そもそも「退位」という言葉自体に「生前」の意味は含まれているから、「生前退位」は屋上屋を重ねた不自然な表現である。「生前」は「死」を、「退位」は「断絶」を想起させ、不吉な予感を与える。…

しかし、メディアで当たり前のように繰り返し使われ、違和感が薄れつつあったかもしれない。そんな状況のもとで、皇后さまの談話は一石を投じられた。少なくないメディアも、「生前退位」という言葉を新聞1面で見た時の「衝撃」「驚きと痛み」に注目して報道した。

談話の英文をみると、その思いはより直接的に表されていた。

It came as a shock to me, however, to see the words seizen taii (in Japanese, literally, abdicate while living) printed in such big letters on the front pages of the papers. It could have been because until then I had never come across this expression even in history books that, along with surprise, I briefly experienced pain upon seeing those words.

出典:宮内庁

この皇后さまの率直な心情吐露に、報道関係者も「痛み」を感じなかっただろうか。

もちろん、皇后さまはそれに続けて「私の感じ過ぎであったかもしれません」(Perhaps I might have been a bit too sensitive.)と付け加えておられる。ご自分の言葉が報道の自由への干渉にならないようにと、慎重に配慮されたと思われる。しかしそれでもあえて、強い表現で違和感を表明された事実は、重い。その事実からは、皇后さまだけでなく、天皇陛下の思いもそれに近いものであったのかもしれないとの想像が働く。もし「生前退位」という表現が真に「ご意向」を反映したものであれば、皇后さまがこんなことを記されるはずがないからである。

2016年7月14日付各紙朝刊
2016年7月14日付各紙朝刊

もちろん「生前退位」報道は間違いでも誤報でもない。ただ、その報道ぶりが、必ずしも天皇皇后両陛下の「真意」に沿ったものではなかった可能性に留意しておきたいのである。そして人は誰であれ、その内面や意思が、自らの言葉ではなく他者の言葉を通じて安易に語られること、使ったことのないフレーズで人口に膾炙していくことに苦痛を感じるものである、ということも。

***

メディアの先行報道がなされた当時、人々は、天皇陛下の知られざるご意向を「知った」と思ったかもしれない。しかし、その時点で天皇陛下からご意向を直接聞いた報道関係者は、誰一人もいなかったであろう。メディア・リテラシーの教えに従えば、ビデオメッセージ以前の報道は、天皇陛下の「ご意向」そのものではなく、報道記者が取材で知り得た間接情報に基づいて推測された「ご意向」にすぎなかった。

結果として、メディアが推測して報じた「ご意向」は、8月8日の天皇陛下のビデオメッセージにより裏付けられ、間違いでないことがはっきりとした。振り返ってみると、NHKの第一報は次のように「ご意向」をかなり的確に把握していた。

天皇陛下は、「憲法に定められた象徴としての務めを十分に果たせるものが天皇の位にあるべきだ」と考え、今後、年を重ねていくなかで、大きく公務を減らしたり、代役を立てたりして天皇の位にとどまることは望まれていないということです。

出典:NHKニュース7(2016年7月13日)

しかし、事前報道によって、私たち国民が白紙の状態で天皇陛下のメッセージを聞く機会は失われてしまった。メディアが報じた「生前退位の意向」を天皇陛下がどのような言葉で裏書きするかに、注目が集まってしまった。

天皇陛下のビデオメッセージ(2016年8月8日)
天皇陛下のビデオメッセージ(2016年8月8日)

虚心坦懐に「おことば」を読み解けば、その主眼は「退位」そのものにはなかったことがわかる。天皇陛下が「ひとえに念じ」ておられるのは「象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくこと」であった。途切れさせてはならない「象徴天皇の務め」とは「全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくこと」であった。そして、「日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅」も「象徴天皇の務め」のうちの「大切なもの」である、と。そうした考えを前提とすれば、論理必然的に「天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けること」だけは、何としても避けなければならない。健康なうちに円滑に天皇の地位を次世代に引き継ぐ選択をしなければならなくなる。

歴史に「イフ」はないが、もし、私たち国民が白紙の状態で天皇陛下のメッセージを聞く機会が持てたなら、メディアもその日おそらく、(継続性よりも断絶性を想起させる)「生前退位」や「退位」という言葉ではなく、(継続性や未来への展望を想起させる)「譲位」という言葉で報じていたかもしれないと思う。

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NHKの「天皇陛下『生前退位』の意向」のスクープは、今年の新聞協会賞(編集部門)に輝いた。

その栄誉を勝ち取った橋口和人氏(宮内庁キャップ、社会部副部長)が、受賞記念に日本新聞協会の月刊誌『新聞研究』(2016年10月号)に寄稿している。それによると、天皇陛下の「生前退位」の確たる意向を耳にしたのは「寒い季節」で、取材を続けていた皇室関係者から「天皇陛下は譲位を望まれている」「数年内に皇室が大きく変わるかも知れない」という話を聞いて衝撃を受けた、という。橋口記者が天皇陛下のご意向を伝え聞いた言葉も「譲位」だった。

寄稿には「他社に抜かれたくない」という”記者本能”による日々の葛藤が、率直に描かれていた。

それからの重圧はすさまじかった。天皇の未公表の意向が明らかになること自体珍しく、今後の日本の社会や憲法のあり方に与える影響も大きい。日本中に激震が走るニュースになるだろう。「どんな段階で、どんな書き方なら放送に出せるのか」。当局サイドに悟られぬよう慎重に動きながら、取材が進む度に予定稿を書き直した。スクープしても抜かれても歴史に残ることになる。長年皇室報道に携わり、50歳の今も取材の現場を任されている者として、負けるわけにはいかない。金メダルしかない勝負の世界で、この話で先を越されるのは耐えられないと感じていた。

他社が動いている気配はなかったが、天皇陛下の意向だけでも大ニュースだ。突然どこかが報じてしまわないか、連日強い不安に襲われた。最後の数か月は、午前4時まで眠らず、新聞各紙の朝刊をチェックする日が続いた。一方で、これだけの話、相当の確証を得ない限りどこも報道には踏み切れまいーーと、自分に言い聞かせて心を落ち着かせた。

出典:橋口和人「重圧に耐えてタイミングを探る」『新聞研究』2016年10月号

「新聞研究」2016年10月号
「新聞研究」2016年10月号

橋口氏は、スクープとして報じるにあたって「報道が、憲法をないがしろにする形で、天皇の退位を助長する結果になりはしないか」という点や、スクープ報道のあと当局が否定して他社も追随せず誤報のそしりを受ける可能性も検討したと記している。それらは、天皇陛下の意向表明が憲法違反にならないとの解釈が示され、8月上旬にもお気持ち表明を行うとの情報を得ることでクリアし、発表にできるだけ近いタイミングを狙った結果、7月13日の報道になったという。

発表前に報道をした意義は、お気持ち表明の理由や背景を事前に伝えることで視聴者がメッセージをより深く理解できたことと、当局取材の原点は、あらゆる情報に「手が届く」ことで、真実の隠蔽や歪曲を許さない抑止力であり続けることにあると語っている。

しかし、そうした意義は、事前取材で溜めておいた情報を発表直後に吐き出すことによっても果たし得る。今回は、報道しなければ真実が闇に埋もれ明るみにできなかったという真正のスクープとは異なり、いずれ発表される情報の「早いもの勝ち」スクープである。とはいえ、こんな重大な事実を知り得たら、誰より早く報じたいと思うのが”記者本能”である。各社が一斉に追随し、世界中を駆け巡った、歴史に残る第一級スクープであったことは、間違いない。

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ただ、寄稿には、取材で伝え聞いた「譲位」ではなく「生前退位」という表現を使った理由については、何も記されていなかった。

NHKの第一報を丹念に聞けば「数年内の譲位を望まれている」という表現も一部で使われていたが、圧倒的なインパクトを与えた単語は「生前退位」であった。「未来」より「終末」を連想させる言葉だった。それをあえて使う必然性はあったのだろうか。

NHKは「国会の答弁等でも『生前退位』『退位』という言葉が使われており、視聴者に意味が伝わりやすいよう、この表現を使っています」と説明した。

スクープのあった7月13日以前の国会議事録を調べたところ、「生前退位」の四字熟語が戦後使われたのは3回。いずれも国会議員が質問するときに使ったもので、政府側答弁では皆無だった。「生前の退位」という表現も国会議員の質問で2回、政府側答弁で2回、使われたことがあるにすぎなかった(昭和59年4月17日内閣委員会・山本悟宮内庁次長、平成3年3月11日予算委員会第一分科会・宮尾盤宮内庁次長)。これまで政府が制度論の文脈で一般的に使ってきたのは、「退位」という表現である。

一方、メディアは、かつてローマ教皇ベネディクト16世の退位のときも、「生前退位」という表現で報道していた。

「生前退位」という表現はたしかに分かりやすくインパクトが強い。だが、「譲位」や「退位」が、意味の伝わりにくい表現だとも思えない。NHKは、ナレーションで「天皇の位を皇太子さまに譲る『生前退位』」と説明を付けて使っており、同じように「天皇の位を皇太子さまに譲る『譲位』」と言えば十分に意味は伝わる。結局、ニュースの視聴覚的インパクトを最大限考慮して選ばれた表現が「生前退位」だった、ということではないだろうか。その副作用が、天皇陛下の真意とずれた「終末/断絶」を想起させるイメージであり、それが一部に強い反対論を惹起させ、当事者にも「驚きと痛み」をもたらしたのだと思う。

私個人としては、天皇陛下の「ご意向」を表すときは「譲位」、制度論の文脈では「退位」という表現がふさわしいのではないかと考えている。

いずれにしても、メディアはえてして一度決めた用語に固執して使い続けるものだが、より適切な表現に改めることができないわけではない(例えば、NHKが「イスラム国」の呼称を「IS=イスラミックステート」に変更したケース参照)。言葉遣いにもっと敏感になり、この機会に立ち止まって再考することを期待したい。

(*) 新聞各社の回答を追記しました。(2016/10/28 17:45)

弁護士

慶應義塾大学卒業後、産経新聞記者を経て、2008年、弁護士登録。2012年より誤報検証サイトGoHoo運営(2019年解散)。2017年からファクトチェック・イニシアティブ(FIJ)発起人、事務局長兼理事を約6年務めた。2018年『ファクトチェックとは何か』出版(共著、尾崎行雄記念財団ブックオブイヤー受賞)。2022年、衆議院憲法審査会に参考人として出席。2023年、Yahoo!ニュース個人10周年オーサースピリット賞受賞。現在、ニュースレター「楊井人文のニュースの読み方」配信中。ベリーベスト法律事務所弁護士、日本公共利益研究所主任研究員。

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