Yahoo!ニュース

EURO優勝のヒーロー。両親は離婚し、父は義母を殺害で服役。施設で育った移民の子が勝ち取った夢

小宮良之スポーツライター・小説家
白い手袋の意味は?(写真:ロイター/アフロ)

ポルトガルはかつてアンゴラ、モザンビークなどアフリカ諸国の宗主国だった。ポルトガルサッカー史上最高のストライカーと言われる"黒い真珠"エウゼビオも、モザンビーク出身。過去、アフリカ大陸からは多くの人々が一攫千金を求め、移住してきた。

EURO2016の決勝、開催国フランスを破る一撃を決めたエデルジト・アントニオ・マセド・ロペス(28歳)、通称エデルも、その移民の子孫だった。

西アフリカのギニア=ビサウで暮らしていた両親は、エデルが3才のとき、ポルトガルのコインブラに移り住んでいる。しかし経済的に苦しく、両親の離婚後、10才になる前には児童養護施設へ預けられることになった。カトリック系の施設で、厳しくしつけられたという。

エデルにはサッカーの才能があったのだろう。

13才で地元クラブでプレーするようになって、クラブを転々とする。貧しさから教育を受けられなかったことで学業はついて行けず、謹慎を命じられることも多かった。しかし手足が長く体格に恵まれ、ボール扱いにも長け、目立つ存在だったという。ただ、痩せてふらふらとした印象で、当時からゴール数は多くはない。ただ、施設の食堂の主人が「1点を入れたらステーキ一枚」と持ちかけ、その日は2ゴールしたという逸話が残る。

そして20歳の時、1部のアカデミカ・コインブラと契約している。月収400ユーロ(約5万円)を得て、ようやく養護施設から抜けられることになった。20歳という年齢制限があって、強制退去が迫っていた。

極限に身を置いた人間はしぶといということか。

しかし、アカデミカ、ブラガ、スウォンジーと所属先では、心の不安定さも見せる。例えばアカデミカでは、2011-12シーズンにチームはポルトガルカップで優勝するが、エデルはプレミアリーグ移籍交渉がこじれてしまい、終盤戦は追放された。ブラガでは飛躍しかけたが、異国の水が合わなかったのか、スウォンジーでは不振を囲った。アデバヨールの異名を取ったように、大きく柔らかな動きをし、可能性を感じさせるも、ゴール数が伸びない。

2012年には代表にもデビューしたものの、パッとしなかった。

「23人の中で代表に一番必要ない選手」という声が、EURO2016大会中も多かったのが実情である。

では、なぜポルトガル代表監督であるフェルナンド・サントスはそのポテンシャルを信じられたのか?

今年1月、エデルはフランスのリールに移籍し、14試合で6得点を記録している。これは妻スサーナがメンタルトレーナーとして夫を支えるようになった成果だという。エデルは批判に心を乱してしまう弱さがあった。

そこで、フェルナンド・サントス監督は特別に妻の帯同も許すことで、千載一遇の機会に賭けていた。

「ゴールしてきますよ」

決勝戦、交代で送り出されたエデルは監督にそう予告し、ピッチに入ったという。エデルはサッカーによって、人生を切り拓いた。決勝の地であるパリでも、勇ましく運命に挑んだのだろう。

「ポルトガル代表として活躍したい」。それがエデルの願いで、意地だった。実は過去にギニア=ビサウ代表入りを求められたが、断っている。そこではエース格になれたはずだが、彼には彼の夢があった。

エデルの父は、義母を殺害した罪により、イギリスで16年間も服役しているという。エデルは少年時代、それでも父に会いに行こうとした。家族に餓えていたということなのか。

歴史を変えるゴールをした後だった。エデルが左手に白い手袋を装着した。見慣れない姿だったが、それは妻との絆を意味しているのだという。

スポーツライター・小説家

1972年、横浜生まれ。大学卒業後にスペインのバルセロナに渡り、スポーツライターに。語学力を駆使して五輪、W杯を現地取材後、06年に帰国。競技者と心を通わすインタビューに定評がある。著書は20冊以上で『導かれし者』(角川文庫)『アンチ・ドロップアウト』(集英社)。『ラストシュート 絆を忘れない』(角川文庫)で小説家デビューし、2020年12月には『氷上のフェニックス』(角川文庫)を刊行。他にTBS『情熱大陸』テレビ東京『フットブレイン』TOKYO FM『Athelete Beat』『クロノス』NHK『スポーツ大陸』『サンデースポーツ』で特集企画、出演。「JFA100周年感謝表彰」を受賞。

小宮良之の最近の記事