【安保報道】朝日新聞にパブリックエディターらが苦言 「正確な情報を」(上)
先週、朝日新聞の紙面上に、安保報道に苦言を呈する外部識者のコラムが相次いで掲載された。ジャーナリストの池上彰氏は、6月26日付朝刊に掲載された「新聞ななめ読み」で、安保法制に関する国会の参考人質疑で、朝日が元内閣法制局長官の発言の一部を正確に伝えず、実際と異なる印象を与える報じ方をしていた問題を指摘した。翌日には、朝日が4月に新設したパブリックエディター(PE)の小島慶子氏が、ドイツ軍の「集団的自衛権の事例」について報じた昨年6月15日付記事を取り上げ、「適切な説明を省き、集団的自衛権の行使で死者が出たと印象付けようとしたと読者に不信感を持たれて当然」と論評した。この2つのケースは共通の問題点を浮き彫りにしている。読者に自ら判断してもらうために正確な情報を提供するのではなく、読者がメディアと同じ意見に導かれるよう都合よく情報を提供しようとする報道姿勢である。それぞれのケースを具体的にみてみよう。
池上氏が取り上げたのは、6月23日付夕刊1面トップの「元法制局長官 解釈変更批判 集団的自衛権『国民 危険にさらす』衆院特別委で2氏」。衆議院特別委員会の参考人質疑で、元内閣法制局長官である阪田雅裕氏と宮崎礼壹氏が安保法制の合憲性について意見を述べたことを報じたものだ。この記事では、政府が集団的自衛権を限定的に容認する解釈に変更したことについて、阪田氏が「憲法を順守すべき政府自ら憲法の縛りをゆるくなるように解釈を変えるということだ」「国民を危険にさらす結果しかもたらさない」と述べたことを報道。しかし、阪田氏が「従来の憲法解釈と論理的に全く整合しないものではない」と一定の理解を示していたことに全く触れていなかったため、阪田氏が「全面的な批判」をしたように読めるような記事になっていたと池上氏は指摘したのである。
朝日は翌日朝刊で2人の元内閣法制局長官の発言を詳しく報じていたが、そこでも改めて阪田氏が全面的な批判をしたかのように報じ、従来の憲法解釈との整合性に理解を示した発言は記事の最後で小さく紹介しただけだった。こうした朝日の報道のしかたについて、池上氏は「社としての意見はあるにせよ、記事が、それにひきずられてはいけません」とクギを刺したのである。池上氏は、「阪田氏の発言は新聞によってニュアンスが異なり、朝日、毎日、日経、読売の順に、発言は厳しいものから緩やかなものへと変化」しており、「この並びは、安全保障関連法案に対する社の態度の順番とほぼ一致」しているとも指摘したが、このうち正確性の観点から最も問題があるのが朝日の記事だった。
池上氏が指摘しなかった、より重大な問題も潜んでいた。阪田氏は参考人質疑で、憲法解釈の変更が許される余地があるとして、(1)新しい解釈が法論理的に成り立つ、(2)解釈変更の理由がきちんと説明できる、という2つの条件を挙げていた。朝日は24日付記事で、阪田氏が1つ目の条件について「『従来の政府解釈の基本的な論理の枠内ではなく、基本的な論理そのものを変更するものだ』と述べ、法論理的に成り立たないと結論づけた」と報じたのである。
これだと、阪田氏が、新しい政府見解は無条件に「従来の基本的論理を枠内にない」との結論を明言したかのようにみえるが、実際はそうではなかった。阪田氏は、従来の基本的論理と「整合しないものではない」との考えを示し、無条件に「整合しない」という立場の宮崎元長官とはその点で異なるとわざわざ述べていたのである。そのうえで、阪田氏は、他国への攻撃によって日本が攻撃を受ける明白な危険が生じる場合に限るのあれば「従来の基本的論理」の枠内におさまるが、もしそうでないなら「従来の基本的論理」を変更するものである、中東有事で日本が攻撃されるおそれのない場合にも集団的自衛権の行使が可能なら「従来の基本的論理」の枠から外れる、と主張していたのである。
朝日は6月16日の社説で安保関連法案を「違憲」であり、廃案にすべきとの立場を明確にした。もちろん、新聞社が社論として立場を明確にするのは自由である。しかし、池上氏が指摘した2つの記事からは、正確な情報を伝えて読者の判断に委ねるという姿勢は感じられない。読者を社論と同じ見解に導こうとして「角度をつけて」元内閣法制局長官の発言を報じたのではないかとの疑いを禁じ得ないのである。(つづく)