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なぜ彼らは手指消毒やマスク着用を拒否するのか・・・個人の自由、公衆衛生、そして公共性

原田隆之筑波大学教授
(写真:アフロ)

コロナ第3波のなかで

 冬になって新型コロナウィルス感染症が、また猛威を振るっています。第3波とも呼ばれるこの感染拡大のなかで、人々の行動傾向は、第1波、第2波とはまた違った様相を見せているように思われます。

 第1波や第2波のときは、突如として降りかかった新たな脅威の前に、人々は不安を募らせ、過剰ともいえる防御策を講じ、その一方で感染者に対して心ないバッシングをすることが問題となっていました。

 そのなかで、いわゆる「自粛警察」「マスク警察」と呼ばれるように、防御策を取らない人々への風当たりが非常に強くなりました。このような動きに対して、私は何度かそのような心理状態を分析し警鐘を鳴らしました(現代ビジネス「日本でも多数出現・・・「自粛警察」の心理を理解できますか?」)。

 しかし、現在はそのような動きとは違って、人々の「コロナ慣れ」「コロナ疲れ」が目立つようになっています。政府が「勝負の3週間」として警告を発しましたが、かつてとは違って人々の外出や外食の自粛といった反応は鈍く、勝負は失敗に終わりました。

 さらに、そのような動きにとどまらず、経済への打撃を懸念してか、「コロナはただの風邪」などと主張し、コロナ対策にあからさまな嫌悪を示し、反対を主張する人も増えています。

消毒液を捨てる人

 先日、あるツイートが大きな波紋を呼びました。そこには画像とともに、「事務所の受付に置いてある来客用の消毒液、こっそり中身を捨てて、水に入れ替えておきました」と書かれていました。また、それに呼応して別の人物も「私もこの前、某ホテルの共用トイレで同じことをしました。みんなの安全を考えて」という投稿をしていました。

 いずれも大バッシングを浴び、投稿者はアカウントを消して逃げましたが、この人物はかねてから「コロナはただの風邪」という主張をずっと続けていたようです。その一連の主張のなかで、このような実力行使に出たのだということのようです。

 コロナ対策について、人それぞれに考えがあることは自然なことです。そして、それぞれが自由に意見を主張できることは大切であり、議論を重ねることが健全な社会のあり方だと思います。

 たしかに手指消毒は大切ですが、あまり頻繁に消毒をしすぎると手の常在菌まで殺してしまったり、手荒れやアレルギーの原因になったりするかもしれません。

 私の個人的な経験として、店舗に入ろうとしたとき、有無を言わさず手を出すように言われ、消毒液を吹きかけられたことが何度かあります。何の液体かもわからないようなものを、強制的に吹きかけられるのは不快であるだけでなく、害も懸念します。実際、あるコーヒーチェーンでは、店頭に置かれた消毒液の容器に、誤って業務用洗剤の原液を入れてしまい、知らずに使った客が手に怪我をするという事件もありました。

 とはいえ、議論にとどまらず、消毒液の中身をすり替えるという実力行使に出てしまうことは明らかに行き過ぎです。消毒をしたい人もいるわけであるし、そもそも会社の備品であれば、この投稿者が勝手にそのような行為に出ることは許されないことです。

マスクを拒否する人

 手指消毒とならんで、マスク着用も推奨されています。しかし、これにも反対する人がいます。記憶に残る「事件」としては、9月に航空機の中でマスク着用を拒否した乗客が、他の乗客や客室乗務員と騒動を起こした挙句、緊急着陸という事態になったことがありました。

 そして、その同じ人物が、今度はホテルのビュッフェにマスクをしないで現れ、ホテル側とトラブルを起こし、警察沙汰になるまでの騒ぎになりました。さらにその翌日も、この人物は、朝食時に同じホテルで同じトラブルを起こしています。彼は、マスパセと名乗り、SNSなどで毎日のように自己正当化の主張を投稿したり、メディアへの露出を続けています。

 手指消毒と同じように、マスクの着用が過剰であると思われる場面は、たしかに往々にして見られます。健康のためというよりは、「同調圧力」によってマスクを半ば強制されるような空気もたしかに存在します。健康上の理由などからマスク着用が困難だという人もいるため、もちろん一律な強制は問題です。

 こうしたことを考えると、過剰なマスク着用やその強制が望ましくないというマスパセ氏の主張は理解できます。それは消毒液の場合と同じです。しかし、やはりここでも言論を軽視して、意図的な実力行使に出ている点や、その結果、多くの人々に多大な迷惑を及ぼしたという点は、到底容認することはできません。

公衆衛生とは

 今、われわれは重大な公衆衛生上の危機にあります。コロナはただの風邪かそうでないかは素人が判断できることではなく、専門家の意見にゆだねるべきです。

 また、専門家といえども新しい感染症であるため、十分な知見がなく、「エビデンス」がないケースも多々あります。しかし、エビデンスがないからといって頭ごなしに否定するのではなく、その場合は最悪のシナリオやリスクを考慮しながら、合理的に判断することが求められます。そのうえで、手指消毒、マスク着用などは、現時点では有効な対策として推奨されているわけです。

 公衆衛生というのは、WHOによれば「共同社会の組織的な努力を通じて、疾病を予防し、寿命を延長し、身体的・精神的健康と能率の増進をはかる科学・技術である」(太字は引用者による)とされています。感染症を防止するには、個人の努力だけでは不十分です。今まさに、人々が協力し合いながら「組織的な努力」を取ることが求められているわけです。

 とはいえ、かつて日本では、公衆衛生が「富国強兵」を目的とし、全体主義的な色彩を帯びていた時代もありました。お国のため、社会全体のため、というと危険な香りがするのはたしかです。しかし、今、何もわれわれはお国のためにマスクをしたり、手洗いをしたりしているわけではなく、そのように強制されているわけでもありません。自分たち一人ひとりのため、そして自分たちの社会のためにそうしているのです。公衆衛生政策に反対する人々は、かつての古い公衆衛生のイメージにとらわれすぎているのではないでしょうか。

公共性について

 ここで、「公共性」という概念にも着目する必要があります。公共性とは、閉ざされた私的で小さな関係ではなく、相対的に開かれた社会関係を成り立たせるために必要な条件です。それを支えるものとして、社会学者の橋爪大三郎氏は、互酬的な関係、規範、権力、言論を挙げています。

 互酬的な関係とは、簡単に言うと、社会の構成員同士が相手を思いやる「お互いさま」の関係です。そして、それが結局は回りまわって自分自身のためにもなるのです。まさに「情けは人のためならず」ということです。

 マスクを着用することにも互酬的な意味があります。それは、自分も他者も、そして社会全体を感染から守るという意味があり、それを理解しているからこそ、多くの人々は意図的にマスクを着用しているのです。マスパセ氏は、単に同調圧力だと主張しますが、それはあまりに一面的な見方だと言えるでしょう。

 もちろん、マスクを拒否することは、個人の権利です。誰にもマスクをしない自由はあります。しかし、「公共」の場においては、他者の権利や自由を尊重したうえで、自分の権利や自由を主張しないと、社会は成り立ちません。権利や自由は無制限なものではありません。他者の権利と衝突するときは、「公共の福祉」という概念がその衝突を調整し、個人の権利や自由を制限する根拠とされています。つまり、他者の権利を侵害しない範囲において、自己の権利を行使すべきだということです。

 次に公共性において重要な要素は、「規範」です。個々の利益が衝突することを防ぐために、共同体では規範、つまりルールが必要になります。本人の権利が他者の権利を侵害するようなとき、それはときに自由の名を借りた暴力となります。そうした事態を防ぐために、私的空間から「公共」へと出て、その成員になるというときは、自ずから規範を遵守することが必要になります。

 それと関連して、「権力」の存在も必要です。というのは、規範には上に述べたように、個人の権利を制限するような場合もあるからです。とはいえ、権力が恣意的に行使されることを容認するわけにはいきません。権力の根拠が、共同体の成員から委託されたものであるならば、権力は公共の利益を代表するように行使されなければなりません。

 マスパセ氏は、マスクをすることが半ば強制され、権力的になることや、それに従わない人や従うことができない人が排除されることを批判しています。その主張には同意できるところも多々あります。

 とはいえ、「権力」が公共の利益から離れて、マスク着用を恣意的に強制しているわけではなく、「公衆衛生」の観点から社会を守るための手段として推奨されているわけです。したがって、それに従うことは社会の利益だけでなく、本人の利益にも通じるのだということを忘れてはなりません。何より、健康に生きる権利は、憲法でも保障された基本的人権です。それを侵害することは許容されるものではありません。

 そしてもちろん、公共の場でのマスクの着用には、例外も認められています。「強制」ではないことは明らかです。健康上の理由などでマスク着用が困難であるならば、冷静にその理由を提示すればトラブルになることは回避できるでしょう(別に具体的な病名を告げる必要はありません)。無用なトラブルを起こさないこともまた、「公共」の利益だけでなく、本人の利益にもなるはずです。

 しかし、マスパセ氏は、いたずらに混乱を招くような行動に出ています。わざとトラブルを起こしたのではないかととらえられても仕方のない行動です。彼が飛行機から降ろされたのは、マスクを着用していなかったことが原因ではありません。現に飛行機は彼を乗せて飛び立っているのです。しかし、その後執拗に客室乗務員に食い下がったり、不穏な言動に終始したりしたために、航空法上の「安全阻害行為」に当たるとの機長の判断から緊急着陸という事態になってしまったのです。

 このようなことを続けていると、そのうち、何らかの理由でマスク着用ができない人が、「理由書」などの提示を求められるような風潮になりかねません。つまり、彼は「権力」や「同調圧力」を批判したつもりが、その利己的な「自由」の乱用によって、一層権力的な方向に進んでしまう恐れがあるのです。

 そして、健康上の理由などでマスクをすることができない多数の人々が、より居心地の悪い社会となってしまいます。これも「同調圧力」を強めてしまうほうへと影響してしまいます。それは、ひとえに彼が、「公共性」というものを軽視したからにほかなりません。

公共性と言論

 最後に、公共性の要素として重要なことは「言論」です。「公共」の場においては、個人の利害が衝突したり、意見が一致しないことは日常茶飯事です。しかし、それでも社会は、それを解決する手段を持っています。それが言論です。人々には言論の自由が保障されており、誰でもそれを行使できます。

 マスパセ氏は、事を起こした後にSNSなどで言論を発信していますが、それでは遅すぎます。実力行使に出た時点で、彼は公共の規範を軽視し、言論というものを放棄しているからです。同時に、多くの人々の権利を侵害し、多大な損害を負わせています。その後で、どれだけ立派な言論をしたとしても、それは後付けの主張であり、誰からも共感されません。

 コロナ禍の時代、誰もが必死で頑張っています。特に、航空会社や宿泊業などは、ただでさえ経営が厳しいなか、自分のところからは一人の感染者もクラスターも出してはならないと大変な努力を払っていることは容易に想像できます。

 しかし、自らの偏狭な主張のみに目をとらわれて、「公共」というものが目に入らない人がいます。お互いの敬意のうえに成り立つ「公共」のなかで生かされ、それに守られていることを忘れて、あたかも自分で一人で生きているかのような思い上がりゆえに、独善的な行動に出ているのです。

 ただ、ここでわれわれが忘れてはならないことは、こうした人々も含めてわれわれの社会があるということです。彼らの人権をわれわれは尊重しなければならないことは言うまでもありません。意見を述べ合うことは大事ですが、その範囲を超えた中傷や侮辱などは「公共性」に反しています。

 コロナは人と人とを隔ててしまう感染症です。その状態が続くと、社会がギスギスしてしまいます。だからこそ、いつも以上に他者を思いやり、ともにこの危機を乗り越えていくことが必要です。今、われわれの「公共性」が試されているのです。

筑波大学教授

筑波大学教授,東京大学客員教授。博士(保健学)。専門は, 臨床心理学,犯罪心理学,精神保健学。法務省,国連薬物・犯罪事務所(UNODC)勤務を経て,現職。エビデンスに基づく依存症の臨床と理解,犯罪や社会問題の分析と治療がテーマです。疑似科学や根拠のない言説を排して,犯罪,依存症,社会問題などさまざまな社会的「事件」に対する科学的な理解を目指します。主な著書に「あなたもきっと依存症」(文春新書)「子どもを虐待から守る科学」(金剛出版)「痴漢外来:性犯罪と闘う科学」「サイコパスの真実」「入門 犯罪心理学」(いずれもちくま新書),「心理職のためのエビデンス・ベイスト・プラクティス入門」(金剛出版)。

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