【九州三国志】熊本城、清正公の遺産!逸話に彩られたその魅力
熊本城は、ただの城郭ではありません。
その壮麗な石垣や荘厳な天守に秘められた物語が、人々の心を揺さぶり続けています。
中でも築城主である加藤清正にまつわる逸話は、熊本城を語る上で欠かせないものです。
御幸橋南詰には「清正公(せいしょこ)像」が立っています。
その存在は、熊本の人々が加藤清正をいかに慕っているかを物語ります。
西南戦争で天守が燃え上がった際、地元の人々は「あの清正公さんの城が燃えている…」と悲嘆に暮れました。
そして、西郷隆盛が「おいどんは官軍に負けたのではない。清正公に負けたのだ」と語ったという話(要出典ですが)は、熊本城の堅牢さと清正への敬意を象徴しているのです。
熊本城の「銀杏城」という別名は、清正が築城時に植えた銀杏の木に由来します。
その大銀杏には、清正の戦術家としての知恵が凝縮されています。
朝鮮出兵での篭城戦の経験を活かし、食料確保のために植えたと言われますが、実際には雄木で実をつけませんでした。
それでも「この木が天守と同じ高さになる時、戦乱が起こるだろう」という清正の予言は、西南戦争という現実で的中したように見えます。
現在の大銀杏は二代目ですが、その存在は歴史の重みを静かに語り続けています。
さらに驚くべきは、清正の徹底した準備性です。
細川家の治世時、腐敗した櫓の柱を交換しようと解体すると「替えの柱はどこそこの池に沈めている」との記載が現れました。
指定の池を調べたところ、本当に柱が発見されたのです。
未来を見据えた清正の先見の明には感嘆するばかりです。
また、清正は水の確保にも抜かりがありませんでした。
熊本城内に掘られた120の井戸は、いずれも豊富な水を湛え、西南戦争で官軍が篭城した際にもその効力を発揮しました。
この井戸の存在が、籠城戦の勝因の一つとなったのです。
そして「昭君之間」という本丸御殿の一室も、清正の忠義心を示す物語を伝えています。
この部屋には、秀吉の子である秀頼を匿うための隠し通路があったという説があるのです。
その名が「しょうくん(昭君)」=「しょうぐん(将軍)」と掛けられている点も興味深く、清正が徳川家康に表向きは恭順しながらも、豊臣家への恩を忘れなかったことを物語っています。
熊本城の石垣もまた清正の知恵の結晶です。
江戸幕府初期、江戸城石垣の普請で浅野家が早々と築いた石垣が大雨で崩壊した一方で、加藤家が丁寧に築いた石垣はびくともしませんでした。
2008年の地質調査でも、清正の工法の確かさが裏付けられています。
熊本城に散りばめられたこれらの逸話は、ただの歴史の一部ではなく、加藤清正という稀代の築城主が遺した知恵と魂そのものです。
熊本城を訪れる際には、その石垣や銀杏の木、井戸の水に込められた清正の思いを感じながら歩いてみてください。
城郭の一つひとつが、清正の声なき言葉を今も語り続けています。