【九州三国志】岩石城、一日で落つ!古処山城の降伏と島津の退潮
天正15年(1587年)3月、豊臣秀吉は九州征伐の一環として豊前へ進軍。
まず、筑前・豊前の重要拠点である岩石城を攻めるべく、蒲生氏郷、前田利長を先鋒とした攻城戦が開始されました。
激戦の末、わずか1日で岩石城は陥落し、約400名の城兵が討死したのです。
一方、岩石城の戦況を見ていた秋月種実は本拠の古処山城に撤退するも、秀吉は兵5万を送り込み、破却したはずの益富城を1日で修復したかのように見せかけ、戦意を削ぐ戦略を展開しました。
ついに4月3日、秋月種実は剃髪して降伏。名茶器「楢柴肩衝」と刀「国俊」、さらに娘の竜子を秀吉に献上したのです。
岩石城と古処山城が短期間で制圧されたことは、島津方の在地勢力に強烈な衝撃を与えました。
戦わずして秀吉方に降伏する勢力が相次ぎ、九州全域で豊臣軍が優位に立ったのです。
秀吉の圧倒的な物量と精密な戦略は、黒田孝高の事前工作とも相まって、島津勢の戦意を完全に喪失させました。
豊前を制圧した秀吉は4月に筑後から肥後へと進軍し、次々と城を落としていきました。
これに呼応し、龍造寺政家や有馬晴信などの勢力も次々と豊臣方に寝返ったのです。
島津軍は秀吉の進軍速度に追随できず、島津忠辰は八代から薩摩出水へ撤退します。
4月下旬、秀吉はついに薩摩に侵攻。
先鋒の小西行長や脇坂安治、九鬼嘉隆らは海路を利用して出水や川内へ進出したのです。
島津方の忠辰、忠長らは降伏したが、平佐城では桂忠詮らが奮戦し、島津方最後の抵抗を見せました。
原田帯刀らが奮闘し、九鬼勢に損害を与えるなどの激戦が繰り広げられたが、結局は島津方の敗北に終わったのです。
この平佐城の戦いを境に、九州の戦局は完全に豊臣方へと傾き、島津氏の大勢は決しました。