JR北海道日高線の一部廃止、利用者減だけでなく、迫り来る海岸線の脅威に力尽き
復旧費と維持費とをJR北海道も沿線の自治体も負担できず、日高線鵡川~様似間は姿を消す
JR北海道の日高線のうち、むかわ町にある鵡川駅と様似(さまに)町にある様似駅との間の116.0kmが4月1日、廃止となった。この区間は2015年1月7日から翌8日にかけて北海道を襲った暴風雪による高波の被害を受けて営業休止を続け、復旧を果たせないまま廃止に至っている。なお、日高線は苫小牧市にある苫小牧駅と鵡川駅との間の30.5kmで引き続き営業中だ。
鵡川~様似間の復旧をJR北海道が復旧を断念した直接の理由は、約86億円に上ると見積もられた復旧費、それから今後この区間を維持するために必要な年16億4000万円の費用を同社単独では負担できないからだ。さりとて、北海道も沿線の自治体も同様に負担できないと回答し、結局廃止はやむなしとなった。
諸々の費用をだれも負担しようとしなかった背景には、利用者の少なさが挙げられる。JR北海道によると、営業休止直前の2014年度にこの区間に1日14本運転されていた列車の旅客数は、1本平均わずか13人であったそうで、利用者は通学のために乗車する高校生にほぼ限られていたという。当然のことながら営業収支は赤字で、2014年度には約11億円の損失を計上していた。
日高線の線路際の海岸を守るのは本来、誰なのか?
加えて、日高線の線路がこの先も高波の被害を受けないようにするための対策に費用がかさむと予測された点もJR北海道が復旧を断念した理由の一つである。太平洋の海岸線に沿う区間が多い日高線では、海水によって線路が浸水したり、線路下の土の路盤や線路脇の斜面が崩れるといった被害にたびたび見舞われてきた。被害件数は2005年までの11年間で実に267件にも上り、そのたびに同社は護岸工事を実施してきたという。
JR北海道は2016年11月9日に発表した「一連の台風被害による日高線(鵡川・様似間)の復旧費について(概要)」のなかで、「復旧費とは別に、海岸侵食対策として、離岸堤(りがんてい)の整備が必要と考えます」と説明した。離岸堤とは海岸線に平行して沖合に設けられる堤防状の構造物を指し、波の勢いを打ち消したり、弱める効果が得られる。また、高波を防ぐだけでなく、波に飲まれて沖へ流されようとする海岸の砂を食い止めて浸食を防ぐ。離岸堤整備に要する費用は公表されなかったが、復旧費と合わせて100億円を超えることは確実と見られた。
JR北海道に対して早期の復旧を求めていた沿線自治体は、同社から「離岸堤の整備」という文言が発せられると、廃止も容認せざるを得ない状況となる。それほど決定的なフレーズであったのだ。
基本的なことを言うと、JR北海道は線路用地の所有者であるが、海岸の土地やましてや沖合までは所有しておらず、離岸堤を整備する責任はない。海岸の防護によって国土を保全することを目的とした海岸法に従えば、海岸保全施設である離岸堤の整備事業費は、基本的に海岸管理者である北海道が負担しなくてはならない。事業費のうち国が20分の11、特に重要な事業と認められれば3分の2を負担する決まりだ。
となると「離岸堤の整備が必要」という発表は、財政事情が厳しい北海道に対してJR北海道が無理難題を押し付けたように見える。ところが、筆者が当時現地を訪れた際の印象では、沿線の自治体はそう受け止めてはいなかった。同社や前身の国鉄が長年にわたり、国や北海道に代わって日高線沿線の太平洋との戦いに明け暮れていたことを知っているからで、同社はついに力尽き、その役割を本来果たすべき者に譲る日が訪れたと理解していたのである。
30年のときを隔てて撮影された2枚の空中写真からはっきりとわかる国土の喪失
ここで国土地理院の2枚の空中写真をご覧いただきたい。今回廃止となった日高線のうち、海の力が最も激烈であった区間の様子が撮影されている。鵡川駅から6駅目の厚賀(あつが)駅(日高町)から大狩部(おおかりべ)駅(新冠町=にいかっぷちょう)を経て節婦(せっぷ)駅(新冠町)へと至る7.5kmだ。見比べてみると、ここで何が起きていたかが一目でわかる。
空中写真1は1953(昭和28)年6月16日に撮影された。画面左から右下に向けての海岸線に沿って延びている線が日高線(当時は国鉄日高本線)だ。画面中央に見える川は厚別(あつべつ)川で、日高線の線路はこの川を長さ297mの厚別川橋梁で渡っている。厚賀駅は画面左上、ちょうど文字がかかっているあたりに置かれていた。
注目してほしいのは、厚賀駅から延びた線路が厚別川を渡った後の区間だ。線路は画面下に向かった後、海岸線に沿ってほぼ真っすぐに画面右斜め下へと延びている。厚別川橋梁を通過直後から画面下までの区間では、海岸線が線路に迫りつつあるもののわずかな陸地が存在し、線路が画面右に向きを変えるあたりからは恐らくは砂浜と思われる陸地があり、海岸線はやや遠い。画面に見える厚別川橋梁の長さから言って砂浜の幅は50mほどと言ったところであろうか。
続いて30年後、1983(昭和58)年9月29日に撮影された空中写真2をご覧いただきたい。厚別川の河口に近い側を通っているのが日高線で、新たに上流に架けられた橋でこの川を渡っているのは一般国道235号・同237号である(両国道の重複区間)。空中写真1と比べて一見でわかるのは、厚別川を渡り終えて画面下、続いて画面右斜め下へと向かう線路の傍らに存在していた砂浜の大半が失われてしまっているという点だ。特に厚別川橋梁から画面下に延びる線路の左側にわずかながらも存在していた陸地はほぼ消えてしまったと言ってよい。
鉄道施設の設計、施工を手がける東京興発の岩垂定男会長(当時)が記した「苦心する浪害対策」(村上温・村田修・吉野伸一・島村誠・関雅樹・西田哲郎・西牧世博・古賀徹志編、『災害から守る・災害に学ぶ―鉄道土木メンテナンス部門の奮闘―』、日本鉄道施設協会、2006年12月、P72-P77)によると、この付近での海岸線の浸食は1935(昭和10)年ごろから始まり、昭和20年代に入ると急速に進行して1951(昭和26)年から1959(昭和34)年までのわずか8年間で97mも進んだという。つまり、1951年には少なくとも線路から97mは離れていた海岸線がどんどん近づき、1959年の時点で線路の直前まで迫ってきたのだ。1983年撮影の空中写真2を見ると、画面下に延びる線路の一部は波打ち際と言っても過言ではない場所を通っていることがわかる。
なお、記事冒頭に掲載した写真は、営業休止中の厚賀~大狩部間を撮影したもので、空中写真1、2で画面下に向かっていた線路が画面右下へと曲がる地点である。写真を見ると線路はまさに波打ち際に敷かれており、波の高い日、それも夜間に列車で通りかかったとしたら、とても恐ろしかったであろう。
日高線沿線の海岸線は悲壮な覚悟のもと国鉄・JR北海道が死守
日高線沿線の海岸線が浸食されるたびに国鉄、JR北海道は護岸工事を行ってきた。線路際まで迫った海岸線がさらに内陸へと進まないよう、対策を重ねて食い止めていたのだ。さらに、日高線の線路を内陸に移す取り組みも実施されている。2枚の空中写真の画面左上から先となる清畠(きよはた)駅(日高町)と厚賀駅との間の4.5kmのうち、約3kmでは1959(昭和34)年から1962(昭和37)年にかけて線路が移設された。移設が進んでいれば、あるいは日高線は存続できたかもしれない。しかし移設はここで止まる。移設完了の前年に現地を視察した国鉄の十河(そごう)信二総裁は、移設工事の光景を見て喜ぶどころか激怒したという。先に挙げた「苦心する浪害対策」には次のように記されている。
線路を内陸に移設する行為を「敵前逃亡」として否定するかのような精神で、海岸線に沿う線路を国土とともに何が何でも守り抜くという国鉄の覚悟がうかがえる。けれども、民営化により誕生したJR北海道が引き継ぐには限界があったことは否めない。
国鉄・JR北海道は、日高線沿線で進行する浸食の対策を国や北海道に求めてきた。だが、日高線のたどってきた歴史を眺めれば全くと言ってよいほど対策が施された形跡は見られない。
実は海岸法では「浸食」ではなく「侵食」が用いられる。侵食を手持ちの辞書で引くと用例に「領土を侵食する」とあった。国土の喪失に対して強い危機感のもと制定された法律であることがわかる。
日高線の線路の幅はおおむね6mほど。かつて線路であった区間の護岸工事をJR北海道に代わって誰も実施しないとなると、陸地のあと少なくとも6mは失われるであろう。国鉄、JR北海道は日高線を通じて長年にわたって国土の保全に努めてきた。その役割を今度は誰が果たすのであろうか。