何が確認できたら原子力は安全だといえるのか
人は原子力の安全基準に何を求めるのか。安全性が確認されない限り原子力発電所の再稼働を認めないというとき、安全性の確認とは具体的に何のことを意味するのか。この根源的な問いに対する答えがなくしては、原子力発電について、止めるも進むも、何も決められない。
一体、何が確認できたら、何が証明できたら、原子力発電は安全だといえるのでしょうか。絶対的な安全性があり得ない以上、安全性の確認とは、ある種の程度にかかわる問題でなければなりません。あからさまにいって、この程度の事前の手当てをしておけば大丈夫、というようなもの以上にはなり得ないでしょう。
安全基準は実質的に免責基準
実は難しい問題ですので、例から始めます。世界の航空安全行政は、飛行機運航の安全性について、何等かの安全性の程度、即ち安全基準を決めているはずです。にもかかわらず、絶対的な安全性があり得ない以上、飛行機は事実として墜落しています。この場合、安全基準の意味は、基準に準拠していても、墜落事故は防ぎ得ないが、基準に準拠している限り、墜落は不可抗力として受け入れるほかないものである、ということになるでしょう。
基準に準拠している限り何が大丈夫であるかというと、誤解を恐れずに、はっきりと、あからさまにいいますが、要は事故の責任が問われないということです。では、どの程度の安全基準の厳格さによって、事故の責任が問われなくなるかというと、これは問の提出方法が逆なのであって、事故の責任が問われなくなる程度にまで、安全基準を厳格にしておかなければならない、ということです。
免責基準を定めるものは何か
また、例から始めます。病院で手術を受けるときには、必ず、医療技術的に排除し得ない危険性について、それを受け入れることの同意を求められますね。当然ですが、この医師と患者との間の合意が免責の基準を作っているのです。
ところで、このような合意が成立するためには、経験的事実として、ほとんど全ての手術例において、手術が有効である、少なくとも手術による弊害の併発はない、もしくは手術をしなかった場合に想定された状況よりも悪化していない、などという実績の積み重ねがあるのでなければなりません。社会的な信用あるいは信頼のないところに危険を受け入れることについての合意は成り立ち得ませんが、そのような信用は実績に基づくものなのです。
飛行機に乗る人は、微小なる墜落確率を受け入れています。その確率を受け入れられるのは、事実として、墜落の危険が道を歩いていて交通事故にあう危険と同等であるという実績があり、その実績に対する信頼があるからです。そして、その信頼が信念の形成につながるのです。飛行機に乗ることができるのは、飛行機が墜ちないという信念のもとでのみ可能なのです。この信念とは、暗黙の合意のことではないでしょうか。
さて、この信頼の形成については、事実としての航空機事故の少なさがあり、さらにその背後には、規制する側における適切な安全基準の設定運用と、規制を受ける側における安全基準の遵守に基づく適切な管理体制の存在があるのです。つまり、適切な安全基準により、結果として、危険が許容範囲内に制御されているという事実があり、その事実が信頼を生んでいるのです。
交通規則は安全基準です。道路上の車両が全て交通規則に準拠して走行しているとの信頼がなければ、自動車の運転はできません。自動車の運転ができるためには、交通規則が必要であり、かつ全ての人が交通規則を遵守(現実には遵守というよりも、準拠程度ですね)することへの信頼がなければなりません。この信頼が自分の周辺の車なり歩行者なりの行動の予測を可能にさせ、事故の回避ができているのです。
信頼が破られたとき責任が問われる
信頼を破ることは、規制を受ける側の安全基準違反であるか、規制する側の監督責任の欠陥であるか、いずれにしても、一般に故意過失の問題として、損害賠償責任等へ発展するだけのことで、通常、社会は、そのようなものとして、普通に機能しているのです。
では、安全基準自体が適正ではない、ということになったら、どうなるでしょうか。実は、通常は、不適切な安全基準が放置されることは、あり得ないのです。必ず事故があるからです。実は、完全な安全性はあり得ないということ、即ち必ず事故はあるということが、事故原因の究明を通じて安全基準の絶えざる改定を促すので、常に安全基準の妥当性が保たれるのです。
しかし、稀に、不適切な安全基準が放置されることはありますね。公害や薬害による健康被害については、その健康被害という事故の事実の認知が遅れるからです。その場合、認知の遅れについて、規制責任を負う政府の対応に関し、故意または重大な過失が認定されることのあるのは、歴史の事実が示しています。それでも、事故の経験を活かした安全基準の改定自体は、必ず行われているのです。
そして、事故の経験が蓄積されていけばいくほど、安全基準は妥当なものになっていく。そこに、社会の進歩があるのです。飛行機は稀に墜落しつつも、飛び続けています。航空機輸送は、現代社会において、欠くことができない必需のものだからです。薬害は常に起きつつ、同時に新薬の研究開発と実用化も積極的に行われ続けています。航空産業や医薬は、安全基準と科学技術の絶えざる革新のなかで、進歩を続けているのです。
原子力安全基準の特殊性
もう、なぜ原子力の安全基準が哲学的に難解であるか、おわかりでしょう。上に述べてきたような安全基準一般にかかわる理屈は、原子力には適用できないからです。あまりにも特殊なのです。
第一に、今回の東京電力福島第一原子力発電所の事故以外に、日本では、事故らしい事故が起きていません。事故により安全基準が進化していくということが、原子力については、当て嵌まらないのです。
第二に、原子力損害とはいっても、原子力そのものの直接的被害など、あるまじきことですし、現実にもない、ということです。原子力損害といわれているものは、原子力の危険を回避するための措置が引き起こす間接損害のことです。したがって、原子力損害を客観的に定義することができず、安全基準が損害の範囲を決める構造になるということです。原子力では、安全基準の意味が全く異なるのです。
第三に、原子力は、産業政策的に極めて重要なものとはいえ、実は電源構成の一部を形成するものにすぎず、絶対的な社会的必要性に基づくものではない、ということです。ここが、医薬や航空機と異なるところです。
検証できない安全基準の妥当性
そもそも、現在の原子力安全基準自体が、事故経験に全く基づかない机上の論理にすぎないのです。そこに、たった一回の事故、しかも、歴史に残る巨大な地震と津波に起因する事故の経験が加わって、何が、科学的に、あるいは統計的に、導出できるというのでしょうか。新たなる基準もまた、経験に基づくものというよりも、理論と観念に基づくものにならざるを得ないでしょう。
悪天候などで、飛行機が欠航になることは、よくあります。まさに、安全基準の適用ですね。しかし、その安全基準は、豊富な経験の積み重ねに基づくもので、十分に合理的かつ妥当なものと信じることができますし、欠航で、誰の責任が問われることもありません。
原子力損害の場合、その多くが避難措置や食品の出荷制限に起因します。まさに、安全基準の適用が損害を生むのですが、その基準は、経験に基づく実証的なものではなく、また十分な科学的根拠があるものでもありません。しかも、この損害は、全て原子力損害賠償の対象となるのです。つまり、妥当性を証明し得ない安全基準の適用が損害を生み、その損害の賠償責任を発生させるという構造になっているのです。
放射線量に関する食品安全基準に明瞭に見てとれるように、事故後に基準を著しく厳格化することに、何らの科学的根拠があるわけでもなく、国民の心理的反応を考慮した政治的措置としか考えようがありません。客観的な科学的根拠に基づく措置ではなくて、社会学の次元に属する政治判断なのです。
加えて、大きな問題は、原子力発電を止めてしまうという選択肢もあり得ることです。飛行機の安全基準は、どこまで厳格にされても、社会的に航空機輸送が必要だという前提のうえで、あくまでも飛ばすための基準です。原子力発電の場合、その必要性が絶対的なものであれば、原子力発電所の稼働を前提にした安全基準の改定作業になるはずですが、止めることも視野に入るとなれば、経済的に不可能を強いるような基準ができてしまう可能性も排除し得ません。
要は、科学技術的な意味でも、社会学的な意味でも、はたまた経済学的意味でも、原子力安全基準には、合理性や妥当性を検証するための客観的基準など、何らないのです。ここに、原子力問題の根源的な難しさがあります。
責任ある政治的決断だけ問題を解く
原子力事故直後から、もう2年近く、私は、膨大な時と字数を費やして、原子力問題を多方面から論じてきました。そのなかでの一貫した主張は、政府責任の明確化を求めることです。
最初の問いは、なぜ東京電力を免責にできないのか、ということでした。この原点の問いは、民主党政権時代には答えられることなく、自民党の安倍政権になっても、答えられていません。しかし、この問いは、答えられるまで、問い続けていかなければなりません。
法律に書かれた「異常に巨大な天災地変」の定義は、科学的に客観的に決まるものではありません。しかし、この規定は安全基準の範囲の外を定める境界として、法律的には、法律の趣旨に基づいて一義的に定められなければならないのです。科学的根拠がないからこそ、この法律的根拠は重要なのです。しかし、政府は、今に至るも、東京電力の免責を否定した政治判断の法律的根拠を明らかにしておらず、その結果として、政府の責任の明確化もなされていないのです。ここに、問題の始まりがあります。
そして今、新たに発足した原子力規制委員会は、科学の名のもとに、原子力政策自体を事実上決するような重大な判断を下そうとしています。科学の名のもとの政治です。しかし、この政治判断には、誰も責任を負ってはいません。そもそも、科学の問題としては、原子力安全基準を決めることはできないのです。国民の選択としての政治決断の大枠のなかでのみ、社会的に妥当な原子力安全基準を作ることができるのです。
国民の意思が確認できたら原子力は安全だといえる
ゆえに、結論として、国民の意思が確認できたら原子力は安全だといえることになります。ところが、国民の意思が一つになることはあり得ません。だとすると、政治の指導力と決断が、原子力を安全なものにするのです。客観的には安全かどうかが決まらない以上、安全だという宣言が安全性の確認にならざるを得ない。要は、政治的に国民の同意が得られる程度にまで、安全基準を厳格化すればいい、ということです。
ここには、大衆迎合政治の愚に流れる危険があります。民主主義とは何だ、というような哲学に及ぶ難しい問題です。安全基準に対する国民の信頼を得るためには、客観性の偽装は外せませんが、そうすると、現在の原子力規制委員会のように、「可能性なしとしない」という安易な保守主義に堕して、責任をもって積極的に何も決められないなかで、消極的に否定的判断に傾くという無決定の無責任に陥るでしょう。さて、どうなるのでしょうか。
この論考では、原子力規制委員会の田中委員長は安倍首相よりも偉いのか、原子力の安全性の証明責任はだれが負うのか、などという問題を論じるつもりでしたし、また「原子力村」批判との関連で、専門性の高い領域の政治判断を専門家に委任することの可否(自衛隊の文民統制につながる問題であることに、ご留意ください)などにも触れたかったのですが、別の機会に譲りましょう。